ぷかしりまる

プリズン・サークルのぷかしりまるのレビュー・感想・評価

プリズン・サークル(2019年製作の映画)
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加害者をたんに罰するのではなく、1人の人間として扱い、対話と教育を通じて再犯防止へ繋げる取り組みが行われている刑務所のドキュメンタリー。ずっと見たい作品だったので、上映会で見られて良かった。上映後にワークショップで、知らない人と映画の感想を語らなくてはならなかったのだが、むずかしさを感じた。というのも、この映画で受刑者は、みずからの壮絶な被害体験(いじめや虐待等)について語るのだけれど(TCユニットという、自らの被害について語ることで、自らの加害に立ち会うというプログラムが行われている)それを聞いたわたしは、彼らに対してどう思えばいいのかわからなかった。どうしてそういう考えに至ったかという彼らの思考のプロセスにおどろき、エンパシーを抱くこと。だからといってその罪を軽く見てはならない。

その後ワークショップで、先生が映画の内容について補足してくれた。先生いわく大事なのは「たんに聞きっぱなしというではなく、どう対応するか」らしい。受刑者は被害体験を持っており、それを加害体験とどう結びつけるかが再犯防止のためには重要になるのだが、被害体験は被害者意識のクセとつながりやすい(ex: 俺も取られたことがあるし取られるほうが悪い…)そうだ。被害を受けたからといって、それは加害の容認にならない。なるほどと思った。聞きっぱなしの同情ではなく、知り合いのように介入し、肯定的な配慮をすること。加害者に対して人として尊厳を持って接し、ともにうまくいかなさの背景をさぐり、言う時はきちんと言うという態度。すべてを許すことが優しさではない。「知り合い感」という言葉が良かった。

受刑者が語る幼少期の被害体験。例えば「暴力は思い通りにできるひとつの手段/思い通りにならなかったら手を出す/強くならないといじめられる」…鑑賞中に、中井久夫の『いじめの政治学』を思い出した。いじめを通じて政治的社会が植え付けられているということ。
「いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。」

印象的だった言葉「刑務所の環境が悪いと、環境に適応しなくちゃとなって被害者にどうとか思わなくなる。」
映画内で、受刑者が自らの加害に向き合うために自らの犯した犯罪のロールプレイ演劇を行なっていたのだが、受刑者がそこで流した反省という名の涙、それは罪悪感なのだろうかと思ってしまった。涙が出たのは、共同体のメンバーに詰められたことによる心の痛みで、当人は自分の感情が分からないままそれっぽいことを言ったのではないか。邪推だけれど…。(他に、加害者の自分が出所後に幸せを感じてもいいのか、罪悪感が消えてしまいそうな不安があるということで悩んでいる方もいました)
そして出所者の一人は、対話について「気持ちを吐き出せる、たとえそれで厳しい言葉が返ってきてもからっぽにできる」と言った。対話が加害者に罪悪感をもたらすことは難しいのかもしれないけれど、自分の言葉を聞いてくれる人がいるということに意味があるのだと思った。

ぷは授業で哲学対話を行った。そこでは「相手の話を遮らない」「何を言っても否定しない」「意見が出なくても発言を強制しない」など安心して話し合いができる空気作りが重要視されており、授業内ではそのルールを何度も読み上げ、たんに守っていただけだったが、この映画を通じてその意味が分かった気がした。
共同体のよさとは、誰かが言ってくれると自分も話をできるということ。誰かに聞かれるということで自分の考えを伝えられる(ひとりで考え詰めて犯罪に走る/自分の本音を言うことは恥ずかしいと思うのではなく、安心して相談ができる)こと。ごまかし続けていた自分の感情に向き合え、それに応答されること。

福島の除染作業に誘われて行くとヤクザの事務所で、飛んで金がないから盗んで物売った、と語る出所者。衝撃だった。それを何も変わってないと叱り「次の(出所者の)集まりまで今の工場の仕事頑張ってみろ」と励ます年長の出所者、「そうやって言ってもらえることって幸せなんだよ」と涙する支援員の姿が忘れられない。

追記
「かつて床を掃くのに使われた道具は、後に虐待に使われた場合、それまでと同じ名前で呼ばれていいものだろうか。…世界が接近不可能なものに変わってしまう衝撃のもとでは、なにもかもがフランツ・カフカやホフマンの小説における悪夢を思わせる。かつてはなじんでいたものが、もはや無害な存在ではなくなり、安心できる場所などどこにもなくなるのだ。」なぜならそれは言葉にできるから pp. 48-9

「いつか加害のことを、そのひとの受けた被害の過去とともに書く方法をみつけることができたらいいと、私はそう思っている」海をあげる p. 70