のわ

泣きたい私は猫をかぶるののわのレビュー・感想・評価

泣きたい私は猫をかぶる(2020年製作の映画)
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原風景から連想させられる心象風景


猫を被る。それは他者と関わっていくなかでおそらく、獲得するであろう最も外側に位置する防衛機制だと思う。僕も中学生の頃は本音は隠すものだと思っていた。「雄弁は銀、沈黙は金」と伝わるように友人は多かったが、本音を話す親友は一人しかいなかった。しかし、大人になっていくってそんなつまらないことだと今は思う。

感性は思考なしには存在し得ない。だから、映画を見るときは「美しい」と思う場面や「つまらない」と感じる瞬間は映画が僕たちに語りかけているのではなく、むしろ、僕たちが映画に語りかけているのだと思うようになった。心を揺れ動かす何かは、その驚異的な機微を前に僕は決まって「美しい」と形容するのだが、そのような行為は美しさを緻密に表現することが僕はすごく怖いのだ。したがって、僕の心に強く残った場面も「美しい」と曖昧な表現をすることにより、言葉の枠にその「美しさ」を閉じ込めないようにしている。例えば、季節の変わり目を桜のはなが散る場面を見ても僕はただ、「梢が揺れたのだ」と言う他ない。このような行為もまた僕の心を守る防衛機制だ。

ムゲが、日之出に向ける恋愛感情は間違いなく本物だ。しかし、あまりに積極的で他者を巻き込む形の表現に、あまり相手にされていない。一見感情と気持ちが確かにリンクしているように見えるが、ムゲの場合必ずしもそうではない。彼女の積極性は、消極的な積極性であり、彼女の瞳が真に捉えているものを彼女は自ら拒んでいるように見えて仕方ない。そして、その影みたいなものを僕たち観客は決して逃さない。そんな経験がある人にはわかるような原風景を思い出させ、ヨルシカの「花に亡霊」が後ろで鳴らされることで原風景が溶け合ったかのような心象風景を呼び起こされる。

ムゲ「ヨーリーちゃーん」

女子たち「頼子ちゃんは私たちと帰るって、無限大謎人間はいらないって。 親にもいらないって言われたんでしょ」

ムゲ「私だっていらない、ヨリちゃんもお母さんも。いらない。いらない。」


走り去っていく少女が泣きながら追っかけてきた親友も無視しながら、ただただ「いらない、いらない、いらない、…」と叫び続ける場面、もう壊れかけの心を、それでも守ろうと本能的に感情を上書きするかのように叫ぶ。しかし、その叫びは心を守る行為にも関わらず、決して嘘をつけない本当は欲していて、求めて欲しかった母親と親友の存在の大きさ、心と言動の衝突によって一層苦しむことになる。

少女のつよがり(防衛機制)が、こんなに僕の心を揺さぶるとは思わなかった。
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