のわ

ワイルド・スピード MEGA MAXののわのネタバレレビュー・内容・結末

ワイルド・スピード MEGA MAX(2011年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます


兄が大変好んで視聴している作品であり、僕にとっては作品自体にそれほど惹かれることはなかったものの、車好きでもなく、暇さえあれば映画を見ると言った人でもない兄が短期間で全ての作品を見たことに対して「何にそこまで惹かれたのか」ということの方が僕にとっては興味深いものだった。


僕はこの作品の面白いところとしてフィクション性とノンフィクション性を素早く行き来しながらも、それら一切を含めた映画としての「語り」にあると思う。

振り子で例えるのなら糸で繋がれた球体を作品として、揺れている方向のどちらかを「フィクション」、その反対に揺れている方向を「ノンフィクション」とした時に球体(作品)を揺れ動かしているのは映画の持つ「語り」ではないか。また、素早く左右に揺れ動く球体を見つめながら、少しずつ収まりどころを見つけたみたいに、揺れが小さくなりフィクションでありながらも、確かなノンフィクション性に着地するこの「ワイルド・スピード」シリーズの様式美は他作品では味わうことの出来ない達成感に満ちている。
この作品の「語り」とはそれ即ち、それぞれの映画の主人公が担っているストーリーテリングを指していて、例えばブライアン・オコナー(ポール・ウォーカー)がギャングの世界に飛び込む姿やドミニク・トレット(ヴィン・ディーゼル)が組織の長として車両を使った強盗を巧みに完遂する姿を見て僕たちは身を預けることになる。

この映画の「語り」が機能するのはここからで見ているうちにギャングの世界に飛び込んだブライアンは実は潜入捜査している警官であり、ドミニク達が緻密に計画を練り、その上で失敗したかと思われた作戦は「失敗に見せた作戦」つまり作戦は完璧な形で成功を納めている。このようにミステリー映画で良く使われる「嘘つきな語り手」が機能しながら、「どんでん返し」と呼ばれる結末を迎えるわけだが、多くの「どんでん返し」は盤上をひっくり返すように根底を覆すものが多いと感じる一方で、この作品は元々あるはずの無い盤上の駒を、存在するように見せられていた。無いものを観客は見せられていたような奇術(トリック)に近いものを感じる。そして、それはこの「ギャング」、「犯罪組織」、「猜疑心」、「騙し合い」、といった作品の背景を強固にするように機能していた。


僕としては、この「ワイルド・スピード」よりもエイガー・ライト監督の「ベイビー・ドライバー」のほうが好きで、よりリアリズムに徹しているのかなと思う。心理学を学んだ僕からすると騙し合いのなかで生きる人たちが特殊な絆を形成するのは「ほとんどあり得ない」と断言できるため、絆を深める名目でみんなでバーベキューをする姿に違和感を感じながらも、兄もそれについては言及していたことを思い出す。そんなことを考えると兄は「人物描写よりもアクションのほうが好きなのかなと」考え好きな映画を色々質問してみると車映画で一番好きなものはジェームズ・マンゴールド監督の「フォードvsフェラーリ」と言われたため困惑した挙げ句、僕が個人的に大好きな「トランスフォーマー」シリーズは

「嫌い」

と言われたため、もう訳がわからなかった。
一筋縄ではいかない兄の持つ心の広さ、キャンバスの白さは僕にとっては映画よりも興味深い
のわ

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