誤宗黒鳥

オッペンハイマーの誤宗黒鳥のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.7
日本だけ長い事公開されない事が話題になっていた本作をようやく鑑賞。正直、本作における日本の描写云々の点は自意識過剰という気もした。
あくまで本作はオッペンハイマーの個人史が原作であって彼の視点からすれば日本は本来ユダヤ人としても量子物理学を一時期学んだ国としても因縁の深い敵国だったナチスドイツが予想外に早く降伏していつの間にか敵国になっていた相手でしかなく(弟子に日本人もいたみたいだが本作には登場せず)、彼の視点からすればあのような描き方になったのも納得できる。

今回の鑑賞にあたっては近頃腸炎っぽいので、マンハッタン計画のリーダーとして、戦後の赤狩り聴聞会の対象として感じていた重圧を追体験するには最高の状態だったと言えるかもしれない。あの要所要所で演出される音響と光による重圧はオッペンハイマーが時代、立場などによって複雑に動揺し、揺さぶられる様を見事に表現しており、原爆の爆破実験の成功の際には「やってしまった…」という呆然とした感じと、プロジェクトリーダーとして努めて自分達の成果を正当化しないといけない個人の姿が浮かびあがっていた。気楽に映画を観に来たはずなのに余計に腹が痛くなってしまったが。めまぐるしい日々の間に入る草原で近しい人と馬で駆けるシーンがオッペンハイマーにとっての癒しであり観客の癒しにもなった。

本作が強調するのは原爆製作はオッペンハイマー一人でできた事ではない点であり、人工村ロスアラモスでの計画の際に彼の化学者としての面はほとんどなくなり、他の人物が指摘するように少将と共に化学者を集めて計画を主導する政治家であり化学者をまとめる管理責任者としての役割を果たしていたに過ぎない(実際オッペンハイマーの計算は原爆の爆発を実証できておらず、原爆を完成させたのは他の化学者達であり彼の理論の限界を指摘する場面が多々ある)。その点でも本作はオッペンハイマーを持ち上げもせず完全否定もせずに突き放した一人物としての彼を描いた作品になっていたと思う。

で、日本の描写の乏しさについては本作は個人史である点の他に、ノーランの完璧主義も関わってると思う。オッペンハイマーとその周辺の人物に密着した視点の再現を志した本作は一切記録映像を引用しておらず、それらも全て再現しようとしている。その徹底ぶりはオッペンハイマーが表紙のタイム誌まで俳優で作っているところからもうかがえる。
仮に本作で日本の風景を描写する場合、ノーランはそれも記録映像を使わずに再現しようとしただろうし、しかしそんな事をすれば本作の流れからするとオッペンハイマーが訪れた事のない場所を映すのは唐突であり違和感大有りになったと思われる。実際、「インセプション」で単に新幹線が走ってる風景を撮っただけで現地人からすれば違和感ありありだったように、本作で日本の描写がないのはコストの面でもこのような条件のためなのではないかと思う。日本を描写していたらさすがのノーランでも色々と違和感と無理が出てきてそれもそれで批判の対象になっていたような気がしてならない。大して日本が描かれなかったわけだが、長崎での試写会ではおおむね本作には原爆に対する自省があると評価されていたのも案外日本を敢えて描かなかった事にあるのかもしれないと、一応長崎出身の人間でもあるので言っておく。

また、本作のもう一つの軸であるストロースの逆恨みによる聴聞会のそもそもの原因を最後の最後に持ってくるところはまんま「メメント」であり、やはりノーランは時間軸の操作による話の筋の運びを基本テーマに持っているんだろうと勝手に納得。「メメント」の10分しか記憶が持たない人物よりももっと長く複雑な時間軸の操作を本作で実験したのかもしれない。個人史ものだとどうしても去年観たデイヴィット・フィンチャーと比較するが、フィンチャーの史実ものが正直地味で退屈に感じるのは、あれが時系列通りに展開するからなのかもしれない。やはり映画においては時間軸の組み換えが演出的効果を果たすのだと改めて思った。そういう意味で本作は個人史で長丁場ながらも退屈せずに観る事ができる点でも配慮された作りの作品だったと思います。本作は決してアメリカ的価値観の代表などではなく、イギリスとの二重国籍であるノーランによるある程度中立的な立場から作られた伝記映画と見た方がいい。

個人的にはケイシー・アフレックの思わぬ登場にびっくり。あのナヨナヨした印象の彼が本作では妙な恐さを発揮していてその姿が見れた点もよかった。
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