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ボクらのママに近づくな!のLCのレビュー・感想・評価

ボクらのママに近づくな!(2005年製作の映画)
3.8
面白かった。

「 Are we there yet? (もう着いた?)」は、特に子どもたちが長い移動中に繰り返す言葉として使われる。まだ着かないの?もうすぐ着く?あとどのくらい?とかとか、何度も聞きたくなる長旅って、誰でも経験あるかもしれない。
作中では、主人公が2人の子どもたちを車で遥々指定先へと送り届ける景色が広がる。
ただ、題名はその具体的な旅だけではなく、複数の人の精神的な旅も表しているように感じられる。

主人公は子ども嫌いという自己認識を持っていたけれど、これはたぶん、自分の子ども時代を肯定出来ていなかったことが根っこにあるんだろうかな。
子どもたちが窓越しに目の当たりにした姿は、彼にとっても傷付くものだったろうと思う。正確には、傷の痛みを思い出すもの、だろうけど。
でも、主人公はそこで、自分たちの旅を基盤にすることが出来た。だから言えたのだ、「損すんのはあっちやで」と。それって、「お前らと居るのめっちゃ楽しいわ、おれはずっと仲良くしてたいけどな」と言ってるわけだよね。その上、「お前らならわかるやろ、今すぐじゃなくてもさ」とも言っていた。
自分の気持ちが過去から今にやっと追いついたことで、子どもたちの未来にも意識を向けられたのかもしれない。

かつて傷付いた時、主人公は「自分に悪いところがあったから」と考えた筈だ。子どもってそういうとこあるよね。自分がいい子にしてなかったからだ、そうやって、愛されていない責任を自分に負わせようとしてしまう。悪い子だってんなら、悪いことしないとな、そう考えてしまうこともある。
子どもたちとの旅は、主人公に気付かせてくれたんじゃなかろうか。自分とか子どもとか相手とか、誰かのじゃなくて、本人の問題だったということを。本人の問題なのに、ガキの頃の自分の問題のように考えてしまっていたことを。
守り支えてくれる親をなくす心細さったら、ないよな。自分は愛されない存在だと感じるだけで、色んな感覚機関が、雨の中の車修理みたいに煙出すよな。バチッてなってうわあああどてーん、なんてもんじゃない衝撃と痛みを、繰り返し味わうよな。

繰り返す痛みの中で、主人公はきっと、作中で見せてくれるやり方を選択してきた。やったぜ、自由じゃん、遊びにいくしかねーっしょ、ハジけよーぜ。
その選択肢が、今また目の前に現れたのだが、彼はそこで旅の目的地を選んだ。そういうことって、初めてだったかもしれない。
当初は、別の目的地があったし、その目的地は、状況によっては別に辿り着けなくてもいいものだった。ちょっとでも問題があれば、すぐに諦めたんじゃないかな、一目惚れ相手に子どもが居ると知った時の変わり身の速さから察するに。
そんな彼が、ちょっとやそっとの問題を前にしても諦めたくない目的地を、とうとう見つけたんだね。長い旅だったかもしれない。30代だっけ、これからの旅も負けず劣らず長いだろうけれども。

主人公と交流を深める子どもたちにとっても、目的地が変わる旅だった。
最初は、自分たちの母親を守る意識で、主人公を排除しようとしていたが、その容赦ない仕打ちを全力で受け止めて、怒って、声を荒げて、時々バツの悪そうな顔をして、でも絶対に見失うまいとあの手この手で追いかけて来てくれる、そういう相手に心を許していく。
子どもたちは、たぶん知っていたんだろうね。母と付き合いたいだけの奴は、子どもと付き合う気はサラサラないので、面倒をかけりゃすぐ寄ってこなくなることを。
そういう人とは、家族になんてなれない。一時的な関係が関の山。子どもだって知っている。主人公が必死で取り繕おうとするのは、本人たちを目の前にして「おめーらなんてどーでもいい」と示すことが躊躇われる人だったからだろう。あわよくばお近付きに。そんな気持ちがあったとしても、最終的には自分の良心に従う者だった。
こいつ、わいらのこと絶対に見捨てないじゃん。そう理解した子どもたちの気持ちを想像してしまう。嬉しかったろうな。

母親さんは、たぶん、かなり疲れておる。自分の悲しみに集中出来ていないだろうし、子どもたちを気遣って優しい嘘を使っておるし、その上食い扶持も考えねばならず、親子3人食う為には労働は避けられず、精神的にも肉体的にも、冗談抜きで限界はとうに超えていたかもしれない。
そういう状態だと、判断力とか注意力が鈍くなったりって、まったくもって一般的な現象なので、彼女の笑顔に隠された必死さも感じられる。
女手ひとつで子どもたちと生きていけるか不安で、愛されない痛みも処理出来ていなくて、誰かに助けてもらいたいけれど、相手がどんな人かしっかり確認する余裕も持てない。必死な女性を狙う者は少なくないにも関わらず。

少なくとも、今の状況で敵だけは作るまいとしていたのかな。
彼女が「頼んだ私が間違っとったんや」と言う姿からは、もう誰も信じない、誰も頼らない、ひとりで何とかしていくしかない、そう腹を括る気持ちを窺えるように思う。
助けてほしいし、頼りたいし、悲しみにゆっくり向き合いもしたいだろうに、それだけのことが困難過ぎて、諦めてしまったような景色。
主人公の選択は、彼女自身が相手をしっかり判断出来たと納得する為にも、重要なものだった。今度は大丈夫、そう思えて、母親さんも心底安心しただろうかな。

子どもたちがひたすら容赦なくて、主人公は全力でやられてくれて、単純に楽しい時間だった。
自分1人だったら問題ないんだけれど、他者をその領域に入れると問題ばかりになり、場を上手く調整出来ない。あるよなあ。
わしも最近はやることが多くて、それらの調整は一旦考えず、色々とやり過ぎるくらいにしておった。遂には我が家の映画好きに「休んでおくれ」と心配されるところまでいったが、おかげで丁度良い塩梅を見つけられたように思う。そういえば、「ぼくはね、賢くないもんで、丁度良さは、1回やり過ぎないとわからんのよ」と誰かに言われたことがある。
子どもたちのやり過ぎなくらいの歓迎が、みんなにとって安心出来る居場所を炙り出していったのかもしれないね。
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