トケグチアワユキ

ほつれるのトケグチアワユキのレビュー・感想・評価

ほつれる(2023年製作の映画)
5.0
劇団た組の作 演出を手掛ける加藤拓也による劇場用映画第二作。

ことし2023年春に池袋の東京芸術劇場で上演された、劇団た組の『綿子もつれる』と基本的なプロットは同じと捉えても問題ない。私はそう思う。
もちろん主演女優も違うし、舞台上で表現できることと映像ではアプローチが異なるところもあるので、設定も登場人物も違うけど、基本の方向性はいっしょだと感じてる。

簡単に舞台と映画の違いを整理しておくと、
舞台では子持ちの夫婦だが、映画では夫の前妻に子供がいるだけで、綿子に子はいない(同居していない)。
舞台で見せるのは居住している家の内部とホテルの一室だけで、映画のグランピングも山梨も依子さんも木村の父もない。

場所/時間、それに伴い登場人物が広がり、この映画はストーリーとしての深度(奥行)を獲得した。
と同時に夫 文則との関りはギスギスほどにもならない、低温状態を常に感じさせる。
ここが舞台との最も大きな違いだと感じる。
たとえば、綿子が感じている夫 文則の実家への引け目/負い目みたいなものは、舞台にはない。
ただ、舞台では物理的な時間/場所の移動を制約される分、夫(舞台版は悟という名)との密着感が恐ろしいほど長く、高い緊張感に晒され続ける。
常に理詰めで自己正当性を主張する夫との会話は、あまりにも圧迫感が強く、男性である私は自分の行動の中にある<悟>性みたいなものとの対峙を迫られ吐きそうだった。

あえて<男性性>という表現を使うが、この地域の文化の中でいつの間にか刷り込まれてしまっている性別の役割分担を、綿子は、映画では自ら口に押し込んでいるが、舞台では羽交い絞めされて無理やり押し込まれているようなイメージだ。

もう一度記すが、これはどちらがいいとかいう話ではない。
素材が同じで調理法も似ているけど、味わいがまったく異なる料理のようだと言えばいいのか、まあもっとはっきり言うとダメージの受け方が違うのだ。


加藤拓也の、男女間のあまりにも些細で、しかし決定的に違和感から解放されないすれ違いの見せ方は、多様性をうたう現代の皮膚のすぐ下にある痛点を刺激する。
すりむき、むき出しになった肉からは血がにじむ。

第一作の「わたし達はおとな」で見せた、黙って背中を突きながら思い通りに仕向けるような暴力性も見事だと感じたが、こちらは正当性をモスキート音で耳に注ぎ込むような、実に気持ちの悪い、それでいて表面上の思いやりと物分かりの良さがそこから逃れることを許さない、閉塞感に満ちた名作だ。