ヨーク

システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのヨークのレビュー・感想・評価

4.2
昨年の『窓ぎわのトットちゃん』辺りから『ペルリンプスと秘密の森』や『ロッタちゃん』2作のリバイバルに続き『リンダはチキンがたべたい!』や『リトル・エッラ』とちびっ子映画(ちびっ子向けではなくちびっ子が活躍する映画)が続々と公開されていてしかもそれらが全部面白い! というこの半年間はちびっ子映画フィーバーだったのだがこの『システム・クラッシャー』もとても面白いちびっ子映画なのでありました。あ、そうだ、俺は未見だけど『スパイファミリー』の映画版もアーニャが大活躍だったらしいからちびっ子映画ということでいいだろう。いや本当にちびっ子映画多いな。
ま、それはいいんですがこの『システム・クラッシャー』は大変面白い映画だったのだがネット上で感想を眺めているとどうも腑に落ちないところが多い。というのも主人公のシステム・クラッシャーちゃん(名前忘れた)に大層憐れんで周囲の大人たちがあれほど真摯に向き合ったにも関わらずに彼女の異常性を矯正することができなかった…家庭の事情や何やらで一人の子供が歪んでしまったときに我々は何と無力なのであろうか…というような非常にシリアスな感想が多く見受けられたのである。う~ん、もしかしたら同じタイトルで全く別の映画でも公開しているのだろうかと思ってしまうほどに俺の感想とは真逆であった。ちなみに本作を観た10分後くらいにメモとしてSNS上に残しておいた鑑賞後ほやほやの感想は“子供を大事にしすぎだしその子供が普通ではないということを大事にしすぎな映画に思えた。やっぱエッラの両親くらいのノリでいいんじゃないだろうか。”というものである。要はちょっと情緒不安定なガキがいるだけで大人共慌てふためき過ぎなんだよ、情けねぇ、ということである。ちなみにエッラの両親というのは先日観た『リトル・エッラ』の両親のことである。
該当作の感想文でも書いたが俺が『リトル・エッラ』という作品で好きだったのは彼女の両親が冒頭30秒くらいしか登場せずにその後一度も悩める主人公である娘にノータッチのままで映画が終わってしまったことなのであった。いやー、素晴らしいよね。ガキなんかほっといても成長するんだよってことですよ。んでそれは本作でも描かれていることなんだけど、本作が『リトル・エッラ』と違うところは大人がガキを信じていないんですよね。子供というのはどんな過酷な状況下でも自力で成長して変化していくものである、というその子供の強さをシステム・クラッシャーちゃんの周囲にいる大人たちは誰一人として信頼していないのである。そして本作はそのことこそを浮き彫りにさせるための映画として非常に優れているなと思ったのである。
あらすじとしてはそんな奇抜なものでもないんだけど、主人公のシステム・クラッシャーちゃんは幼少期に父から受けたトラウマが原因で少しのきっかけで癇癪が爆発する子に育ち学校も母親もグループホームもどこに行っても彼女は問題を起こして居場所がなくなっていた。そんな折、支援学校的なところの30代半ばくらいのおじさんが「俺なら彼女を救える…」と一念発起して特別プログラムだかなんだかとして彼女と電気もネットもない山中で暮らすことになるのだが、システム・クラッシャーちゃんの明日はどっちだ…というお話ですね。
ま、ざっくり言えば社会不適合者を更生させる話という感じだろうか。それが前科者の大人とかではなくてまだ8~10歳くらいの子供であるという映画ですな。無理矢理ジャンル分けするならもうちょい登場人物の年齢層は上だが昔懐かしの『金八先生』的な物語だと言えるかもしれない。しかし本作の感想を見ていると、映画の受け取り方に正しさなんてものはないし人それぞれでいいとも思うのだが、上記したようにシステム・クラッシャーちゃんを救うことができない大人の無力を嘆く感想が多いんですよね。別にそれはいいんだけど、何でそうなるのかっていうと本作を観てそういう風に感じた人っていうのはきっとシステム・クラッシャーちゃんが破壊しようとしている「システム」の側にいる人だからそう思っちゃうんじゃないかなっていう気がしたんですよね。
じゃあ何かと、子供を庇護という名のコントロール下に置けばそれが「良い子」ということになるのか、と。あるシステム下でしか生きていけない人間に育て上げることが子供を「救った」ことになるのか、と。学校に行かない子供は異常で悪い子で救われないのか、と。それは全部システムの中生きることしかできない「システム」側の人間からの目線であって、それに当てはまらないというだけのことに善も悪もないのである。もちろん窃盗も暴力も悪事ではあるが子供というのは善も悪も持たないものだ。大人になるまでの間にそれを学んで緩やかに大人が作り上げた「システム」(退屈なものだが)にすり合わせていくようになればいい。
ただそれだけのことだし、そしてシステム・クラッシャーちゃんは大人共のつまんねーシステムを次々とクラッシュさせていきながらも徐々に学んで成長していっているのである。窃盗に手を染めたのは冒頭だけだし、トラウマから来る暴力性も乗り越えることができる兆しは作中で描写されていた。ただ、そのどちらにも大人は気付いていないのである。要は単純に、本作の大人たちは真剣に彼女のことを見ていないのだ。もちろん、一緒に合宿するおじさんも支援学校の校長的なおばさんも悪い人ではないどころか基本的には善い人なのだが、決定的にシステムの内部からしか彼女のことを見ていないのである。おじさんの方は何度かそのシステムを一緒に壊してくれそうな兆しも見せ、だからこそシステム・クラッシャーちゃんが懐きもしたのだが、結局は「お前が脱走したら俺が仕事を失うだろ」とか言っちゃうシステム側の人間なんですよ。「仕事を失くしてもいいからお前に付き合ってやんよ」と言葉には出さずともその意思を態度で示すことができればきっとそれこそが「救い」になったのではないだろうかと俺は思う。ま、そのせいで本当に仕事を失うかもしれないがな。
俺は本作をそういう映画だと思いながら観ていましたね。凶暴性丸出して絶叫しながら暴れまくるシステム・クラッシャーちゃんを応援しながら観ていたわけだが、その彼女の姿というのはすっかり「システム」の中でしか生きられない大人になってしまった俺にとってのある種の「救い」でもあったからなのだ。おじさんは彼女を救ってやれるとか勘違いしてたけど、逆なんだよ。大人は社会の中でそのポジションに応じた力を発揮することができるし、それが正しいことだと思われているけどそれは力を得る代わりに不自由にもなっているということなんだ。エンドロールで流れる曲がニーナ・シモンの「Ain't Got No, I Got Life」であることを考えればそこは明白であるとさえ思う。あの選曲は痺れた。そしてネタバレは伏せておくが、ラストシーンもそれを示しているだろう。彼女が本当に救われるべきである憐れな存在であるならば旅立って映画は終わったはずである。だがそうならなかったということは、本当に「救い」が必要なのは彼女ではない、ということなのだ。
無論、ネグレクトやDVなんかによって早晩生命の危険が危ぶまれる、というような子供は積極的に保護して「救う」べきであると思うが、システム・クラッシャーちゃんくらいの子なら多分逞しく生きていくと思うよ。むしろ作中に出てきたどの大人よりも強く育つであろうという気さえする。なので感想文の最初に戻ると、そこまで子供を大事にしなくていいし子供が普通じゃないということもそこまで大事にしなくてもいいと思うんですよね。どのラインでそれを見極めるかはとても難しいことだとは思うけど。
まぁでも色々な立場から様々な感想が出る映画だとは思うので是非、劇場で観るのがいいのではないでしょうか。俺は精神年齢がシステム・クラッシャーちゃんと同じくらいなのでずっと彼女に感情移入していましたけどね! 面白かったです。
ちなみに完全に余談だが、この感想文を書いてるときにランダム再生でボウイの「Boys Keep Swinging」が流れたので、ウチのiPodちゃんは本当に賢いなと思いましたね。
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