ももも

ニモーナのももものレビュー・感想・評価

ニモーナ(2023年製作の映画)
4.1
徹底的に「内」側の話だと思った。ニモーナはクィアネスに溢れててとても魅力的なキャラクターだし、同僚の金髪名門キラキラ騎士と付き合ってる困り顔系サイバーパンク騎士も(義手はそれほど活用されていない気もするけど……)いいなと思うし、映像も緩急のバランスがよくて気持ちいいと思うんだけど、物語がせせこましいというか、かったるいというか……。

もう少し詳しく言ってみる。
まず、この物語はある国家(都市国家?)を舞台にしていて、基本的にはその内部で起こったことの話しかしないし、その外側が映像に現れることはほとんどない。
この国家は、その内部にさまざまな不整合というか、不自然な設定を持っている。技術的には現代レベルかそれ以上の段階に達していて、文化的にも現代の西側社会とそう変わらなさそうなのに、議会等の存在は描写されず君主(女王)が直接統治しているように見えたり(女王が死んだ後は、軍事学校の校長が全権を担う軍事独裁国家へと速やかに移行する)、同性愛に寛容である一方で「庶民」とそれ以外(貴族?)のあいだにはっきりとした身分差があり、身分に関する差別的な発言や行為があってもそれを明確に咎める習慣はない(身分差別が当然の習慣である)様子だったり。
何より、あれだけ物質的に隅々まで豊かな暮らしを実現するには、外部からの資源の収奪が必要なはずなんだけど、そういう描写が一切ない。それどころか、国境の壁の外の様子はほぼまったく映像に映らず、登場人物がその話をすることもほとんどないので、観客には、壁の外がどうなっているのか、そこに人はいるのか云々といったことさえまったくわからない。
要するに、下部構造と上部構造のあいだに巨大な、それでいて出どころのわからない奇妙な食い違いがあるということ。

この食い違いは、差異に関する物語を「内」側で完結させようとしたことによって発生したものだと思う。そして、その動機自体は、正当な理由に基づくものでもあると思う。ニモーナがそうであるような「モンスター」、被差別者は、壁を超えて「外」からやってくるばかりではなく、すでに「内」側にも存在しているのであって、その存在を認めないことに差別のひとつの根源がある。だから、ニモーナは最初から「内」側にいるのだ。
ただ、そのようにして「内」の視点を取り続けることによって、むしろニモーナが国家の「内」側へと同化される話になってしまっているように思える。ニモーナが壁の「外」で過ごした(はずの)動物としての生活は、壁の「内」側における人間としての生活に対して二次的なものと位置づけられ、彼女の危険で、乱暴で、暴力的な性質は、みんなの仲間に入れてもらえないことへの怯えによるものと解釈される。そして何より、彼女は多くの国民の命を救った活躍によって、最終的に国家統合の象徴となる!

そう考えたとき、「We Love Nimona」が意味するのは、われわれもわれわれ自身のなかにある差異を認め「外」との関係を考え直すよということではなく、ニモーナもようやく自分が無害かつ有益な存在であることを証明してこっち側に来れたね、ということでしかないのではないか。ニモーナは、自身に備わる内在的な力を剥奪され、抽象的で害のない存在へと矮小化されてしまったのではないか。
(最後のほう、一部壊れた壁の内外を大量の乗用車が行き来する様子が描かれているのだが、そこで描写される「外」は絵に描いたような(?)素朴で無害な自然であり、また乗用車たちがどこへ向かいどこから入ってくるのかまったくわからないので、物語の最初と最後で「内」と「外」の関係がどう変化したのか、ここから読み取ることはできない。)

ニモーナはたぶんトランスジェンダーを表すキャラクターなので、トランスジェンダーの人々が置かれている苦しい状況を表現するものとしてはいい、とは言えるのかもしれないけど……。
最近みた「ウィッシュ」の歌のなかに、「おれが宇宙の塵だって? サイコーじゃん!」という感じの歌詞があり、個人的にはそういう力強さのほうが好み(映画自体は、そうでもなかったんだけど)。
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