ももも

雪山の絆のももものレビュー・感想・評価

雪山の絆(2023年製作の映画)
4.3
人肉食は、善でもなければ悪でもない。それは、非人道的で「加害」的なおぞましい行為でもなければ、キリストの血と肉を口にすることでもない。少なくとも、雪山で遭難し、孤立無援の状態で二ヶ月以上を生き延びた彼らにとっては。彼らにとって、それは、生き延びるために必要とされる最低限の手段の一つであるだけでなく(つまり、例外的に許された悪、というだけではなく)、病人の背をさすり、救助を得るために過酷な遠征を行うことと同様の、ひとつの人間的な行為に他ならない。
人間的であることと社会的であることの、密接な結び付き(邦題の「絆」よりも、原題の「sociedad=society」を尊重したい)。もちろん、通常の文脈においては、人肉食は「非人道的」で「反社会的」な行為である。ただ、雪山における特殊で限定的な「社会」においては、むしろその行為こそが「人間」であることの徴となる。人間の形は、社会の形に合わせて変化する。そしてその変化は、ほとんどの場合、過酷である。

なぜ、こんなことを言う必要があるのか。それは、そこに「人間」がいた、という事実をはっきりと主張するためなのだろうと思う。
「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」を伝える日本語記事のほとんどは、新しいものも古いものも例外なく、「人肉食」を見出しに含めている。海外各国のものも事情はそう変わらないだろう。
それらの記事においては、まず「人肉食」というセンセーショナルな事象が話題の中心に置かれ、それを非人道的な行為として断罪したり、緊急避難的なものであったとしてその罪を保留したり、あるいは(特に宗教的な観点から)逆にその善性を強調して遭難者たちを擁護したりすることが最大の関心事となる。
そこでは、実際に雪山で遭難した人々は、そうした話題を補強するための材料として、抽象的な問題を論じるための架空の舞台の登場人物として扱われることになる。雪山は、当時そうであったのと同様に、人々の住まう社会から排除され、抹消されることになる。そこには人間はおらず、社会もない。「人が生きられる場所ではない」。
しかし、その認識は間違っている。そこには確かに人間がいたし、人間同士の結びつきがあり、社会があった。その地点から出発することなしには、あの雪山に辿り着くことはできないし、あの場所で起こったこと(人肉食は、そのほんの一部に過ぎない)を理解することもできない。
この映画が遭難者同士の精神的・物質的な結び付きを詳しく描いていることの背景には、こうした事情があったのではないかと思う。実在する事件を基にしていること、そして関係者の多くが存命であることが、この論点を重くしている。

自分ならとても生き延びられないだろうな、と思うと同時に、しかし目の前のけが人の手当てをしたり、ラジオを修理したり、肉を切り分けたりといった個々の行為に関してなら、同じ状況でもむしろ精力的に行おうとするかもしれない、とも思った。たぶん、彼らも似たような心境だったのではないかと思う。
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