このレビューはネタバレを含みます
胸が締め付けられ優しさに心がほどけていく希少な映画体験 全てのキャラクターにしっかりとバックボーンが見えるからこそ、複雑な味わいがあって、これは本当に丁寧な仕事の積み重ねだなと思わされる 呉美保監督のこの繊細な日常の掬い取り方、子どもの演出の上手さは是枝裕和監督も想起するけれど、女性的でリアルな細やかさは西川美和監督とも重なる また、日本を舞台にしたリアルな「ワンダー きみは太陽」のようでもあって、これは泣いちゃう大人がいっぱいいるだろうなぁ
新任小学校教師の岡野、娘に手を挙げてしまう母親の水木、認知症の兆候が現れ始めた独居老人の佐々木という三者の日常が並行して語られていく
まず、岡野の苦悩と教室の騒がしさのリアル 失禁してしまう児童、それを揶揄う児童というカオスが連鎖する日常 説明に感情が乗ってしまって家族への謝罪が空回るの新人あるあるだよなぁ 家族の口だけ映すの上手い やりきれないのも分かるけれど、解決そのものというより、相手の“スイッチ”を理解しようとするってことは大事だし、そこと行動に大きな矛盾が発生しないように説明責任を果たせるかを考えながら行動することは大事だよなと思う ここも学年主任の対応、その後の先輩のフォローっていうバランスも良い そして、恋人に会いに行き、愚痴を漏らす やっぱり、何事もそうだけど“自分がいちばん大変だ”って思ったら絶対にダメなんだよ これは絶対に肝に銘じて仕事しないとダメ この愚痴の漏らし方がめちゃくちゃ新人って感じがまたリアル 別にそれが悪いというわけではなくて 想像力がまだ狭小というか シャワー浴びて来ようかな、で構えるところもめちゃくちゃ自分のことしか考えてない感が絶妙 彼女が自分の話をしてから、あえて「何だっけ?」って聞いて、岡野が「何でもない」って黙るところも見事 お互いが自分のことで精一杯で岡野が相手を見て自分の振る舞いと同じであることを自覚するところであり、彼女も実は“あえて”っていう塩梅にも見えるし そこからの子どもがもう嫌だよ、ってところからのハグ ここは本当に心がほどける名シーン いいよ、って拒絶しながら、抱きしめられて、優しさの感覚を取り戻すというか この説得力って凄いなと思う 大人になるほど沁み渡るというか また、虐待疑惑の児童の対応 帰れない児童との会話も、「やることあるけど帰る」という自分の弱さをポロッとこぼした“自分も不完全なんだ”と提示していくような感じもいい 細かいけれど、裏でのタバコ、ポテチ、コンビニ、部屋着とか、絶妙なそういった記号だけが散りばめられているのも見事 多分、そういうのって、“こっち”が勝手に失望しているだけなんだとも思うし、そこを保護者から裁かれるシーンを入れていないのも作り手の“余裕”だよなと思う 会話の中で、直接的ではなく遠回しに、相手の気持ちを慮る努力をしてながら、不器用ながら言葉を紡いでいくのも尊いよなと思う 抱きしめられるという宿題の後のドキュメンタリーのようなカメラワークも印象深い 子どもたち、一人ひとりの中に事実があって、それのどれもが間違いではないという空気が現出されている
また、水木が子供に手を挙げてしまう生々しさ そのシーンを背中から長回しで見せる 生々しくも露悪的ではないというこのバランスが見事 子どもが親への恐怖を抱きつつも、お揃いの靴を望んだり、たとえそういった行為を受けながらも、“愛してしまう”という子どもの気持ちは尊くも残酷であり、もちろん児童虐待は何をもってしても正当化され得るものではないけれど、親だって人間で完璧に全てを遂行できるわけじゃない 池脇千鶴演じる母親の明るさは、水木とは対照的なものを感じて、それはコンプレックスともなる 「うちの子になる?」という言葉は大宮なりの水木へのサインだったのかもしれないし、本心だったのかもしれないし だからこそ、そこを突かれた水木は堪らなくなってしまう タバコの跡も匂わされる程度だったところから、今度は水木を大宮が抱きしめる 大宮は自身も虐待されていたこと、水木に対して自己嫌悪の共感を示す ここも不意を突かれたシーンで、それもまた大人も完璧な人間ではないと思わされる この時に子どもがスッと消えるのもリアルだと思う 子どもって、“本当の時”って空気は読めるんだよな それに、水木も多分だけど、自分が虐待されていた側だったからこそ、“気になってしまう”んだろうな 彼女の視線は監視というより、不安感なんだと思うし、自分と同じ目ひ合わせてやるなんて気持ちはなくて、だからこそ、自己嫌悪に陥るというスパイラルなんだと思う
メインの岡野と水木のパートは直接交わることはなく、池脇千鶴と高橋和也という「そこのみにて光り輝く」からの続投の2人が夫婦であろうことが匂わされているのみ 高橋和也が真逆の良い人過ぎるの笑う ただ、ここは直接的にクロスオーバーしていなくても、“親と子”という視点で間違いなく繋がっている 岡野が虐待疑惑の児童を家に送り、“父親”が彼に手を挙げているだろうところ、他にも保護者の親を見て、“親になるなら責任を持てよ”と思うけれど、水木のパートで“完璧な人間でないと親になってはいけないのか”と反転した問いを突き返される それがまた心地良い
それから、独居老人の佐々木の不安定な日常理解力の低下から、季節感は希薄になり、買い物は万引きしてしまう 空襲のトラウマで夜に怯えるシーンや桜が舞うシーンは、かなり珍しいくらいに認知症を丁寧に描いていると思う 話を合わせようとして、微妙にズレているという感じが上手い そして、スーパーの店員の子どもがあの自閉症の男の子で お行儀のいい良い子だと言われてお母さんが泣くところ それぞれの親が抱える不安とコンプレックス それぞれの“抱きしめる”シーンの説得力と優しさ 全てが凄まじい感動と優しさ
そして、邦画あるあるでもある“突然終盤に走る”というシーンがこれほど必要性と説得力のある形で現れたことがあったろうか 桜が舞い散る教室、児童の触れ合いのお楽しみ会、歓喜の歌、5時のチャイム、鉄棒にいない彼 虐待疑惑を知りつつ、立ち去ってしまうあのシーンの苦しさ 桜が舞い散るという事実でなくとも認知症の人にはそれが真実であって、それを降らせてそこを走るという これも“邂逅”だし、なんて優しい映画なんだろうと 人間、チャイムトゥチャイムで仕事ができれば1番だと思うよ でもね、最近はそういうのを美談にするのも分かるし、そういう作品も多いけれど、実際はそこに収まらないことは絶対にあって これは時間外労働を賛美しているというわけではなくて というか、世の中はね、絶対に無理をしてくれている人で回っているという側面は確実にあるんだよ そして、彼の家のアパートのドアをノックする ここの素晴らしさは、ノックを2回繰り返すところ これがノック1回でエンドロールだったら、それは感動の深さが違う これは、1回目で出ないけれど、2回目をノックするという行為に価値がある つまり、君の心をノックし続けるという意思表明 これがもう胸に刺さるわけで その後はどうとか示されないけれど、それだけでいかに救われるか でも、児童に悲惨なことが起きている可能性はあって、逡巡を促されるところもあって
呉美保監督は「そこのみにて光り輝く」同様に、人間の心の深いところの機微を描き出すのが本当に上手いし、最後には希望を見せてくれる ケアをする側と必要とする側、多様性の社会を描いて次作はコーダがテーマというのは、「コーダ」がオスカーを獲ったからっていう浅薄なものではないことは今作からも明らかだし、監督自身が在日韓国人で、高校時代に教師の勧めで通名から本名に変えたってエピソードもあって、だからこそ、今作のラストに「呉美保」と出るのがまた説得力を増している気がして 「そこのみにて光り輝く」、「きみはいい子」というこの2作だけでも、呉美保監督が日本でトップクラスの映画監督であるのは自明だろう