拝み屋さんの心霊事件簿シーズン2です。続き物だったので、1より視聴しやすく感じました。
「タルパ」という、オカルト版イマジナリーフレンドとでも言うべき概念がテーマになっていました。オカルト界では割と知られた概念のようです。他にも、明晰夢などの単語も頻発しますので、そちら方面がお好きな方にはたまらないドラマだと思います。
ただ、このドラマのタルパは超常現象というよりも、人間の孤独を描くツールとして機能しているように思いました。
近ごろは孤独が実際に心身に害をなす災害であると言われています。何もない部屋に閉じ込められると幻覚を見るのは有名な話ですから、タルパやイマジナリーフレンドのような交流型の幻影も一種の防衛規制なんだろうなと、素人考えで理解しています。
もちろん、幻影とはいえ当事者にとっては、かけがえのない拠り所です。もしかしたら、命づなかもしれません。だからこそ桐島加奈江や麗麗は記憶の中で、大切な友人として輝いていたのだろうと思います。
しかし、いずれは消えるべき幻影には違いありません。幻影との「対話」は実際には独り言ですから。自分しかいない自己充足の宇宙は、安全なシェルターであると同時に、他者との出会いを妨げる檻でもあります。必要もないのにいつまでもそこにいようとすれば、自分自身のみならず、周囲の人たちまでをも損なうのです。
(タルパ=桐島加奈江の暴走はそれを表しているんじゃないでしょうか。人間は孤独であってすら、他者と完全に無縁ではいられないのだなと、つくづく思います。)
他人とのコミュニケーションには葛藤がつきものです。殴り合いも、足の引っ張り合いも、殺し合いだってあります。だからこの世から戦争はなくならないし、血をわけた家族であっても、完全に理解し合う事はありません。心に深い傷を抱えた人たちにとって優しい世界とは言えません。
それでも、愛情や慈しみ、新たな世界を生きる喜び、そして、心の傷が癒える薬のような物もまた、他者との交流の中にしかないのも事実だろうと思います。
だから、郷内が過去の傷を乗り越えて、マユミという伴侶を受け入れてゆく過程と、タルパたちとの戦いが同時進行なのは、実に象徴的でした。後半の「鬼神の岩戸」など、まさに、自己を客観視できるようになった郷内自身の体験なんじゃないかと思いました。
あの地下室の男は、自己充足の宇宙を手放せないまま破滅してゆくバージョンの郷内なわけです。
彼は他者が差し伸べてくれた手を見ずに、自分の頭の中でこしらえた幻影しか見ようとしなかった。
他者に対する恐怖心が強すぎたせいもあるとは思いますが、暴力依存もあるでしょう。あのドアに開けた不気味な穴はすごかった。一方的に見るという行為は暴力です。現実の無力な自分を忘れ去るために、「見ること」つまり他者への暴力に中毒していたんだろうと思います。
そして、さまよい歩くタルパ「月川ルイ」の無惨な姿は、男たちの幻影の依代として暴力を受ける「現実の女性たち」の姿そのものではないでしょうか。
考えて見れば月川ルイは地下室男のタルパです。創造者と創造物は実のところ同一存在ですから、あの男は自分自身を支配し、物として所有し、暴行しているとも言えるわけです。この構図には暴力の本質に通じる象徴性があるように思います。
この地獄から救われるために必要なのは何なのか。少なくとも、お偉い救世主様や「心優しく母性的な美女の愛」でないことだけは確かでしょう。まず自分にやってるDVを自覚し、自分でやめることからしか始まりません。
実はシーズン1での女性の描き方が気になっていたのです。いわゆる「イライラさせられる嫌な女」ばかりなのです。「これだから女はバカで嫌なんだよ」とでも言うような。
これも、いまだ心にタルパを内包して、自己充足の宇宙にいた主人公の世界体験だと思えば、なるほど納得です。シーズン2の最後まで見て、ようやく辻褄が合いましたし、大団円で安心しました。
単なるオカルトホラーかと思いきや、良質なファンタジーでした。