孤独死というテーマを中心に、日本とフィリピンの生活、人々、カルチャーの在り方のコントラストを自然に浮かび上がらせる手法が秀逸だなと思った。
QAで監督は「本当にフォーカスして描きたかったのは、絶対的に正しいものはないということ。日本ではプライバシーを重視する一方で、フィリピンでは人と人との間の境界がなく(あたたかみに満ちているものの)、道をリビングルーム化してしまっている節もある」と話されていてなるほどなと思いつつも、東京で暮らす自分にとってはやはりあのフィリピンのオープンな寛容さはどこかユートピアめいて見えた。それは恐らく、人がやはり社会的な生き物であって、隣人や路上で偶然出会った人との繋がり、というものには極めて原始的な人間社会の姿をそのままに見出せるからなのだと思う。
ちなみにオンライン英会話のフィリピン人の講師にこの話をシェアしてみたところ、「地方の方が近所付き合いは濃い。都市部ではそういった交流は失われつつある。都市部に住む自分もプライバシーが欲しいと思うタイプなので、介入されると正直煩わしいかな。私は隣に住んでる人の顔も知らない。」と話してくれた。今後もしかしたら地方でも人と人との繋がりは希薄化していくのかもね(日本でも)、と2人で話した。とはいえやはり孤独死というのはフィリピン人の彼女にとっては新鮮な概念のようだった。(英訳でも孤独死はlonely deathと、いまいちしっくりくる単語が存在しない。)
本作の主役を張るリリー・フランキーも素晴らしかった。興味深かったのが、彼が演じるヨージの家の中で1人の時と人目がある外にいる時での振る舞いのちがい。
自分しかいない家の中ではやつれたシャツにパンツと靴下という格好で、コンビニで買ったカツカレーを雑に掻き込む姿はお世辞にも綺麗とは言えない。ところが施設で働くフィリピン人スタッフらに招待されて公園で料理を分け与えてもらう時は、きっちりとしたジャケットを身に纏い両手両足は上品に揃えられ、ゆっくりとした手つきで一口一口少量の食べ物を口元へ運ぶ。その姿には不思議ないじらしさと律儀さが共存している。
恐らく多くの日本人がヨージと同じように、「内」と「外」の境界線を、もはや無意識的にといっていいほどのナチュラルさで、それはそれはクッキリと引いていると思う。この習性は日本社会に脈々と受け継がれるDNA的なものだろう。
これを踏まえ考えた時、ヨージがフィリピンでの生活に馴染むにつれ、彼の境界線の引き方が非常に曖昧になっていくのがまた面白い。ミネルバとああいう関係になっておきながらも彼女に「思いやりがない」と言わせしめる程に彼の独特の人間臭い醜さが露呈するのは、彼が対峙するカルチャーとカルチャーの間で引き裂かれ自分を見失っていく真っ只中にいたからなのだろう。
こう書くと「じゃあやっぱり郷に入っては郷に従えなんて無理だね」とドライになりそうなところを、渋谷サープラス(日本で孤独死した人たちの家財道具を販売する店。フィリピンに実在するという)を使って引き戻すエンドはシンプルながら美しかったように思う。
QAに登場したリリー・フランキーが終始つかみどころが無く(めちゃめちゃ笑った)、けれども熱を込めた言葉を途切れ途切れに伝えてくれて心が動いた。
「コンビニでマスク外して"Happy new year"っていうような、ああいうことで世界は変わっていくと思う」という言葉に心の中で大きく頷いた。(橋口亮輔監督作でとても好きだった「恋人たち」の役所のシーンを思い出しながら…!)