ベルトルッチにとっての映画の美しさとは、いったい何を意味したのだろう?
そのことを自分なりにつかんでおきたくなり、数年前に彼の作品にいくつか触れたことがある。17歳のときに、教授(坂本龍一)が音楽をつけた『シェルタリング・スカイ』に接し、音楽の素晴らしさには心を奪われたものの、映画については、西洋人に固有の放浪先での喪失感ほどしか感じられず、どこか心に引っかかっていた。
また『ラストエンペラー』(1987年)をはじめとする、『シェルタリング・スカイ』(1990年)『リトル・ブッダ』(1993年)などのいわゆる「東洋三部作」からは、この人の核心と思えるようなものは、何ひとつとして感じられなかった。別の意味で圧倒されたのは『ラストエンペラー』のみ。
映画であれ何であれ、また作り手であれ受け手であれ、それが表現されたものであるなら、美について思いをめぐらせることは、必ず何らかの経路を通して1人1人のなかで行われることになる。そして、ごく普通に思っていたような意味での美しさが、美とは異なることに、体験が深まっていくにつれて僕たちは気づくことになる。
またそうした体験は、作り手と受け手の垣根を超えるように、受け手の1つの洞察を通して作り手とつながることがある。このことは、立証不可能であるがゆえに妄想と呼んで差し支えないものの、けれど確かな実感を伴いもする。
そのようにして僕なりに感じたのは、ベルトルッチにもまた、身体性から立ち上げられた(優れた表現者のほとんどがそうであるように)核心があったということであり、それは彼の場合、ある種の空虚さのようなものだった。
そのため、本作の主人公マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)を、虚ろなファシストと指摘することには、ほとんど意味がない。現に映画は、そのように明確に彼を描写しており、むしろその虚ろさが、どこまでベルトルッチ(作り手)にとっての固有の切実さをもち、その切実さを通して僕たち(受け手)の虚ろさに響くことになるのか。普遍性や美しさは、そうした原風景として立ち現れるものだろうと思う。
ベルトルッチの映像としての美しさは、主に初期作品では色彩や浮遊感として表れ、やがて『1900年』(1976年)から『ラストエンペラー』(1987年)に見られるような、室内から屋外も含めた意味での背景描写へと結実していった。また、その美しさは、やはり彼に固有の空虚さによって支えられている。
僕にとってとりわけ印象的だったのは、そのため映画のプロットとして重要なシーンよりも、精神病院に収容されている父親を、マルチェロが母親と訪ねる場面になる。
画面のほとんどが真っ白になる(どこか古代の劇場を思わせる)病院の広場で、彼は父親をどこか軽んじるように挑戦的に振るまう。そして、この空白地帯のような描写があるからこそ、彼の空虚さが青や赤に染まっていく描写が生きているように感じた。
普通になりたいと公言する彼の心理は、いたって凡庸な存在であることを、むしろ覆い隠そうとしているものであり、ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)という凡庸な女と結婚したのも、学生時代の恩師である哲学教授の妻アンナ(ドミニク・サンダ)に惹かれながらも、保身のために土壇場で彼女を見捨てることしかできなかったのも、そんな姿を見て、暗殺任務に同行したマンガニェロ(ガストン・モスチン)に軽蔑の言葉を吐かれたのも、さらには第二次大戦が終結したのちに、親友のイタロを路上に見捨てたのも、すべては空虚さからのものになる。
けれど、それを指摘することに、どれほどの意味があるだろうとも思う。
僕にとって重要なのは、そのように糾弾することにはなく、古代演劇の舞台のような精神病院で邂逅した、父性との対峙であり、彼が本当にその手を血で染めなければならなかったのは、あの場面だったという点になる。
しかし、それは果たされない。果たされなかったことを、ベルトルッチはさりげなく(それでも印象的に)あのシーンに描き出していた。
その他の様々なシーンは、彼にとってはいわば代理戦争のようなものであり、したがって空虚にならざるを得ない。また、そうした空白地帯を中心とした色彩や心理の交差が描かれているからこそ、この作品は美しさとしての地平に立つことができている。僕にはそんなふうに感じられた。
★イタリア