modéré très expressif|ほどよい速さで表情豊かに Claude Debussy|Nuages│arr. Maurice Ravel
Are You Slow?(お前は間抜けなのか?)
映画について、何かしらの言葉を書き記そうとするときに、審美眼が厳しくできている人間ほど、この声を自らの心のうちに聞くことになるのではないか。
眼>>続きを読む
大きな感動があったわけではないにも関わらず、いつしか心の一角に住み着き、ふとしたときに思い出してしまうのは、やはりスコット・ヒックスによる作品だからかもしれない。料理人(シェフ)を主人公とする映画は数>>続きを読む
数少ないスコット・ヒックスの映画作品を思い浮かべるときには、いつも静かな気持ちで僕は振り返ることになる。またそれは、作品の語りかけてくる声が静けさを求めるからだろうとも思う。
心の振幅から言えば、そ>>続きを読む
健常であることと、障害を抱えていることとの違いは、おそらく社会制度として捉えるかぎりは、どうしても齟齬(そご)を宿すものかもしれない。またそれは、ヒューマニズム(非人間的なことを対立軸としながら人間的>>続きを読む
一般論として、結婚や出産や育児という体験が人にとって不可欠なものとは思えない。しかし、これもまた一般論として、そうした体験が人を成熟へと導くことも確かだろうと思う。
そして、僕自身の特殊論としては、>>続きを読む
アメリカという国は、何でもプロフェッショナルにしてしまうというか、弁護士にしてもエージェントにしても、代理人の活躍する機会が本当に多いことについて、妙に感心しながら観たことがある。
原題は『Up i>>続きを読む
男性がオイディプス神話に象徴されるような「父殺し」へと向かう宿命をもつなら、女性もまた別の神話による「母殺し」へと向かう宿命をもつのではないか。
しかし、彼女たちは直接的に母へと向かうのではなく、そ>>続きを読む
オイディプス神話のように、象徴的な意味での父殺しを描いた名作は『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督, 1982年)をはじめ数多くあるいっぽうで、母殺しを扱った作品がそれほど多くないのは、ジェン>>続きを読む
僕は父親であるものの、乳幼児からの子育てを、もしかすると妻以上にやってきたところがあるため、この映画に描かれる、あのシーンやこのシーンが痛切に伝わってきた。また、このことは、隣家の女の子(ものすごく可>>続きを読む
僕自身がここに描かれる主人公と同様に、不眠に悩まされていた頃に観たため、その痛切な思いを自分自身のことのように思いながら、深夜から早朝の気配へと移り変わっていく時間を過ごした思い出がある。
映画は映>>続きを読む
理屈じゃないのよ。言葉では説明できない。
これに類した理屈(理屈じゃないという理屈)と言葉(言葉では説明できないという言葉)を、ささやかながらも半世紀にわたって生きたなかで、数多くの女性たちから聞い>>続きを読む
それなりの年齢になるということは、ささやかながらも、様々なかたちで女性たちと関わってきたことを意味する。そして、何度となく繰り返してきた彼女たちとの齟齬(そご)のなかで、1つの命題を巡っていることに僕>>続きを読む
エスター(少女性)からパール(女性性)へ。
それぞれの作品には、広義の意味での少女性と女性性の核心に宿るものが描かれており、そのため怖さよりも、どこか命の奔流を僕の場合は感じることになった。
そう>>続きを読む
Billie Eilish(ビリー・アイリッシュ)の歌う『bad guy』が、なぜあれほど素晴らしいのか。ほとんどすべての優れたホラー作品(サスペンスであれスリラーであれ)がそうであるように、この映画>>続きを読む
男は刺し違えようとする。
女は食い殺そうとする。
男であれ女であれ、いずれにせよ性的に生きざるを得ない象徴的な意味での典型を、ニコラス・ウィンディング・レフンは『ドライヴ』と『ネオン・デーモン』の2>>続きを読む
男と女、それぞれの性に宿る暴力性。
その姿がどのようなものであるのかを、ニコラス・ウィンディング・レフン監督による『ドライヴ』と『ネオン・デーモン』は、原色のように示しているように感じる。そうした意>>続きを読む
詩的な言語や修辞(レトリック)を用いず、散文としてのそれによって詩を書いたような印象があった。そのため、詩情はあっても詩にはなってなく、映画としての風情はあっても映画にはなっていない。
しかし、詩に>>続きを読む
良い歳の男女2人による恋愛感情を、ボーイ・ミーツ・ガールと呼んで良いのかどうかは分からない。しかし、この感情は、たぶんほとんどの男女が知っているものであり、10代の頃のそれとは屈折や屈託の仕方が、やは>>続きを読む
テリー・ギリアムの監督作品である『未来世紀ブラジル』、『12モンキーズ』、そしてこの『ゼロの未来』を並べてみるとたいへん面白く、男性のなかに宿るある種の心の有りようを、それぞれに描いていることに僕は気>>続きを読む
もしもフランツ・カフカ(1883-1924年)が、ジャン・コクトー(1889-1963年)のように映像の時代まで生き伸び、何らかの奇跡的な偶然が重なったならこんなふうにも撮っただろうか。僕にとってはそ>>続きを読む
男にとっての初恋という体験は、どこか永遠のテーマになりうることを描いた作品のように感じる。
またこのことの前に、元ネタとなった『ラ・ジュテ』(クリス・マルケル監督, 1962年)を云々しても、絶望的>>続きを読む
映画に限らず、僕たちの心の核心に残るものとは、「それがどうした」という一言を通過したあとに、それでもたなびいてみせた何かのように思う。
フォトロマンと呼ばれる(撮影した動画を写真のように処理する)モ>>続きを読む
ここに描かれる狂気のようなものと、俺はいつか対決するのではないか。高校生のときに観てそう思ったものの、実は、すでに対決していたというオチがつく。彼女は、いつでもすぐそばにいた。
ことによると、ロバー>>続きを読む
17歳のときにテレビ録画で観て、心を射抜かれたような思いがした作品。今振り返ってみると、その後の僕の歩みを深い場所で予言し象徴していたことがよく分かる。観終わったときには、深夜2時をまわっていた。>>続きを読む
何かつらいことがあった時に、忘れればいいという一般的な考え方がある。しかし、そう都合よく人は忘れられるものではないと僕は思っており、人生訓のようなものは正しければ正しいほど、間違えた生き方しかできない>>続きを読む
フランク・ダラボンが、スティーブン・キングを原作として撮った3つの作品の最後が、この『ミスト』であることを面白く思う。そしておそらくはコケてしまっていることも含め、ステイーブン・キングはやはりこうでな>>続きを読む
映画作品や映画体験について書き記せば書き記すほどに、映画という様式に宿る奥深さ、もしくは映画によって呼び出される、僕たちの心の奥行きへの敬意が深まっていくところがある。
そのように、深い領域で自分自>>続きを読む
スティーブン・キング原作による映画と知ったときには、とりあえずは観るようにしている。『ハッピーエンドが書けるまで』(ジョシュ・ブーン監督, 2012年)のリリー・コリンズに馬鹿にされたとしても、やはり>>続きを読む
前作が13歳の思春期に通過する「それ(IT)」であったのに対し、本作は40代のいわゆる「第二の思春期」に通過しなければならない「それ(IT)」を描いている。この27年周期という設定を見ても、スティーブ>>続きを読む
ホラーというかたちはとっているものの、スティーブン・キングの原作作品がすべてそうであるように、真に描いているものは恐怖ではない。それは恐怖という経路を通してしか目にすることのできない何かであり、それ(>>続きを読む
人から傷つけられることや、人を傷つけることではなく、自身のなかに満たすことのできない空白を、切実な痛みとして感じること。青春のもつ痛みの本質とは、そんなところにあるのではないか。ここでいう空白とは、何>>続きを読む
父親が作家として生計を立てており、娘と息子もまた作家となっていくこの『Stuck in Love』(愛にとらわれて)は、何ということもない可愛い映画ではあるものの、『ウォールフラワー』(スティーブン・>>続きを読む
それぞれの幸せと不幸せの間(あわい)に、慈愛に満ちたまなざしが宿っているような作品だった。
レイモンド・カーヴァー(1938-1988年)の短編を読んだときの感覚に近く、彼の地でブルーカラーに生きる>>続きを読む
大好きなポール・ダノの初監督作品であり、その関係性を愛おしく思っている(妻となった)ゾーイ・カザンが共同脚本を務めており、大好きなキャリー・マリガンと、大好きな(嫌いな人なんているのだろうか)ジェイク>>続きを読む
もしも大好きな相手が、望むように自分のことを大好きでいてくれたら。
そうした願望は、思春期や青年期の失恋というかたちで、切実に味わう感情ではあるものの、ひょんなことから、もしもかなってしまったなら。>>続きを読む
それぞれに問題を抱える家族6人が、1台のワゴン車に乗り込むこのロードムービーは、最終的に心温まる絆へと収斂していくいっぽう、その骨格を支えているのは、身体性として現れる他者性にこそ自己は開かれていくと>>続きを読む
広告をご覧いただくと引き続きご利用いただけます。