ペルソナという、タイトルにも使用されたC・G・ユング(カール・グスタフ・ユング, 1875 - 1961年)による深層心理用語から、人が社会的な仮面を被りながら生きることと、その仮面の下に隠れている本>>続きを読む
いわゆる「近代的自我」と呼ばれるものが、どのように引き裂かれることになるのかを、処女という一種のicon(イコン:象徴的な像)が、汚され殺されることを契機(きっかけ)に、その父親が懊悩(おうのう)する>>続きを読む
老年期に、自身の過去を振り返るように空虚さに気づいていくという話であれば、なにもベルイマンをまつまでもなく、チャールズ・ディケンズ(1812-1870年)の『クリスマス・キャロル』などにも原型があり、>>続きを読む
なぜ、『(500)日のサマー』(マーク・ウェブ監督, 2009年)のトムくんが死神とチェスをしたのかと言えば、ある季節を生きるときの失恋は、どこか死を意味するからであり、そのときの異性は神のように沈黙>>続きを読む
どこか『カサブランカ』(マイケル・カーティス監督, 1942年)を思わせる、三角関係プラス1の男女4人の物語(脚本)、オーソン・ウェルズをはじめとするメインキャストそれぞれの魅力、夜の街に差し込む光と>>続きを読む
映画界の様々なレジェンドや巨匠たちが、この作品をオールタイム・ベストに挙げているのを尻目に、ささやかな観客の1人として深く胸に刻まれたのは、たった1人の男の巨大な空虚さをテーマに、大小様々な技術や演出>>続きを読む
原題のスペイン語「El」が示す通りの作品であり、「ザ・男」とでも言うべき男性性に宿る核心(のうちの1つ)を濃密に描き出していたように思う。
ジークムント・フロイト(1856 - 1939年)による無>>続きを読む
いわゆるシュルレアリスム(surréalisme)とは、ジークムント・フロイト(1856 - 1939年)による無意識の発見、もしくは「発明」を契機(きっかけ)としたものであり、本質的には「そのこと自>>続きを読む
英語の「gift」という言葉が表すように、才能とは授かりものであるため、才能それ自身について考えることには、ほとんど意味がない。もしも才能が備わっていれば、(もちろん努力の先に)それは開花していき、才>>続きを読む
海外の映画を観るときには、多かれ少なかれ、何かしらの誤解を通過せざるを得ない。そのことを思う代表例として、この作品は僕のなかに刻まれている。もしかすると誤解のほうが、多くを占めているのではないか。>>続きを読む
いつでも、そこは自分の場所ではないような気がする。
何のために生まれてきたのだろう。もしも心から愛せる誰かがいれば、それが生の根拠にもなる。熱中できる何かでもいい。けれど、そうした対象にこれまで出会>>続きを読む
男が男として生きることの風景を、圧倒的なまでに、1つの現象として描いてみせたこの作品に接することで、映画作品には、形而上学的なものと形而下学的なものとが存在することを思わずにはいられなかった。
もの>>続きを読む
女は見つめられるほどに、男は見つめるほどに、それぞれの核心に宿る空虚さを知ることになる。それは、愛と呼ばれる濃密な希求性が内実(対象の対象性)を失い、何かを希求する力のみが取り残されることによって浮上>>続きを読む
映画作品のなかには、単体で観ても今ひとつ核心がつかみづらく、監督としての作品群(フィルモグラフィ)や、時代として前後に存在する流れのなかに置いてみなければ、うまく焦点を結ばないものがあることを、この『>>続きを読む
モニカ・ヴィッティと出会う以前、ルチア・ボゼーを主演女優とした長編処女作『愛と殺意』(1950年)、および第2作となるこの『椿なきシニョーラ』(1953年)にこそ、ミケランジェロ・アントニオーニにとっ>>続きを読む
誰でも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
この「マタイによる福音書」5章28節の言葉は、様々な意味合いを持つものであり、信仰心を持つ者にとっては、あるいは大きな躓(つまず>>続きを読む
湿潤にざらついた手触りとでも言おうか、主演したのがマルチェロ・マストロヤンニということもあり、次作となる『8 1/2』(Otto e mezzo)の前奏曲(prelude)といった風情が、濃密に立ち込>>続きを読む
物語としての暗喩を用いて、叙事的に描いた『道』(1954年)。その暗喩という橋を焼き払ったうえで、叙情的に自意識を描いた『8 1/2』(1963年)。
ここで言う暗喩の意味については、『道』(195>>続きを読む
本人にとっては、とてつもなく切実なことが具体的になればなるほどに、他人にとっては関心の対象外になっていく原理は、うなされて目覚めたばかりの悪夢を誰かに話す体験からもよく分かる。
そのことを少し寂しく>>続きを読む
暗喩(metaphor)と言ったときに、一般的に思い描かれているのは、実は記号(signal)や直喩(simile)であり、叙事性と叙情性についても、それが優れた作品であるほどに、どこかで転倒する現象>>続きを読む
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』には、彼のすべての小説がそうであるように、主人公ラスコーリニコフの他にも、主人公クラスの人物が様々に造形されており(ポリフォニックな群像性)、そのうちの1人にマル>>続きを読む
この痛切な状況を、1901年に生まれたヴィットリオ・デ・シーカは、実際に父親のうちに見たことがあるのではないか。原作こそ、ルイジ・バルトリーニによる同名小説とあるものの、時代の風景としてではなく、おそ>>続きを読む
感傷(センチメント)が絶たれるということ。
ネオレアリズモ(Neorealismo, 1940 - 1950年代)の旗手の1人として、『自転車泥棒』(1948年)などで知られるヴィットリオ・デ・シー>>続きを読む
美は、人によって見出されながらも、決して人には奉仕しないことが象徴的に描かれていたように思う。
また、19世紀から20世紀にかけてヨーロッパ文明が没落へと向かう軌跡を、作家として引き受けたトーマス・>>続きを読む
ベルトルッチにとっての映画の美しさとは、いったい何を意味したのだろう?
そのことを自分なりにつかんでおきたくなり、数年前に彼の作品にいくつか触れたことがある。17歳のときに、教授(坂本龍一)が音楽を>>続きを読む
17歳のときの夏休みの課題(英語の原書を読む)で、ポール・ボウルズ『The Sheltering Sky』(1949年)を選び、確か「traveler」と「tourist」との違いを繰り広げる冒頭の叙>>続きを読む
イタリアの現代史を綴ったとされる『1900年』(Novecento, 1976年)から、約10年後に撮られた『ラストエンペラー』は、いわゆる「東洋三部作」と呼ばれる作品群の1作目に当たるものの、素晴ら>>続きを読む
5時間16分の超大作という作品の性質を裏切るように、やはり本作に僕が感じたのは、ベルトルッチの中心的な部分に宿る、空虚さや空白地帯のようなものだった。
たしかに、映像は動く絵画のように美しく、『19>>続きを読む
進化の圧倒的なまでの冷ややかさを描いた『2001年宇宙の旅』(1968年)、生の本質を描いた『時計仕掛けのオレンジ』(1971年)、人生における価値の無根拠さを描いた『バリー・リンドン』(1975年)>>続きを読む
日本の近代批評を切り開いた小林秀雄(1902-1983年)のデビュー作『様々なる意匠』のなかには、彼の批評スタイルの根拠を示すものとして、たいへん有名な一節が登場する。
批評とは竟(つい)に己れの夢>>続きを読む
原作者スティーブン・キングの描く恐怖の奥には、必ずヒューマニズムが宿っており、土から生まれたものが土へと還るような温もりが宿されているいっぽう、スタンリー・キューブリックの場合は、どこまでも冷ややかさ>>続きを読む
この映画については、かつてキューブリックの名前も知らなかった頃に漫然と観たため、筋のほとんどは記憶していない。しかし3時間という長尺のなかで、淡々と綴られていく1人の男の生涯の無根拠さに、静かに圧倒さ>>続きを読む
良い映画、良い小説、良い音楽、良い美術、良い舞台。それが何であれ「良い○○」と僕たちが口にするときの「良い」の意味は、何度でも推し量ってみる価値があるかもしれない。
あらゆる表現は、本来的には何かの>>続きを読む
ありのままにという、態度や考えを示すものがある。しかしそれは原理的に不可能であることが、このことを突き詰めていった先で明らかになるように思う。
それは、人が人である限り、文化的な快不快や身体的な快不>>続きを読む
伝説的な『ブレードランナー』の世界が、ファンの手によって独立して生き続けているようなハードルの高さにも関わらず、何の留保もなく正統的な続編として味わえたことに嬉しく驚いた。監督がドゥニ・ヴィルヌーヴで>>続きを読む
近未来の都市像をファンタジーではなく1つの現実のように表現し得たことをはじめ、映画史的に見ればエポックメイキング的な作品になるいっぽうで、僕の心をとらえて離さないのは、古代の神話的な世界へと通じる物語>>続きを読む