のわ

ベンジャミン・バトン 数奇な人生ののわのレビュー・感想・評価

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深い意味での理解とは距離を知ることでもある。

僕の実体験によってある人の言葉が浮上し、感覚的に理解した瞬間があった。
全く解けなかった数学の問題が、ある日突然理解し解けるようになる感覚に近かった。
「そうか、そう言うことか」
そして、それが本当の距離を見誤った(「そうであってほしかった」と無理解的な)軽薄的な理解であることを僕は知ることになる。

一人の女性と関係を結ぼうとしたとき、自分のことを差し出したり、相手のことを知ろうとすれば距離を縮めようとしているにも関わらず、その反対のことが起こっている気がしていた。そんなはずないのに、
つまり、自分の現在地点を知ることと、何処か目的地を目指すことのように相手を知る前に距離を縮めることは不可能と言ってもいいと思う。
僕とその女性は今はまだ、近づこうとしない、僕たちの間に隔たっている距離を互いに測っている。こうした事情とその人と深い関係を持とうとすることは全く別の領域の問題であることがよく見えてくる。

初めて見たとき、全然理解できなかったこの作品はもしかしたら、そのことを体(外)と心(内)で表現していたんじゃないかと一旦受け取ることにした。

老いていく群、若返っていく個

なぜベンジャミン(ブラッド・ピット)は若返っていき、人々は老いていくのかという問題に関して僕達は何度でも思いを巡らせてみる価値がある。
正反対の時間を生きるベンジャミンとデイジー(ケイト・ブランシェット)が関係を結ぼうとする時間と空間的な瞬間がいつ訪れるのかについて描いていたのではないか。そして、いつでもそこには生の実感が宿っている。

年月は僕たちを裏切るために存在している。

80歳の体で生まれ、彼の義理の母を除いて理解しようとするものは居ない。牧師に「貴方は立てる」と囃し立てられ初めて自分の足で立つとき周りとベンジャミンには感動の意味合いが違い、誰も彼を理解しようとしない。
しかし、デイジーのみはベンジャミンを理解しようとする。周りはそれを許さない。

40歳を折り返しとして、2人はようやく一緒にいることを選ぶ。そして、立場が逆転していることに気付く。体(外)ではなく、むしろ心(内)がそれを拒んでいることに
若さは支持される。
次の年
39歳と41歳
38歳と42歳
37歳と43歳
36歳と44歳
35歳と45歳

年月は体(外)を味方にし、いつでも心(内)を殺しに来る。

年齢差というものを僕は肌で感じた経験はそれほど多くない。

僕はあてもなく車を走らせていた。いつも決まってドビュッシーの「月の光」をかけて僕は知っている道をただ走っていた。

好きな女性は僕より7歳も上だった。
食事に誘い断られ、またデートに誘う。僕より不安なのはきっと彼女だった。
遊ぶつもりなんて一切なかったけど、だからすごく不安だった。

23歳と30歳

7歳以上に距離があるように思えた。彼女からしたら僕はどんなふうに見えているのか、遊ぶつもりなんて本当に無い。
田村カフカくん、今ようやく彼の気持ちが少しわかったような気がする。
彼女はデイジーのように葛藤しているかもしれず、恐れているかもしれない。

もし、僕と彼女が逆の立場だったのなら、今ほど悩ますことはなかったと思う。
この映画もデイジーとベンジャミンが逆だったのなら、大した映画ではないと思う。
今はそれがはっきりと分かる。

僕はベンジャミンのように振る舞うことが正しいとは思わない。だからといってどうすればいいか本当にわからない。

こうした心の動きというより自問自答は僕の中で絶えず変化している。
あの方がレビューを書き直し続けるというのはつまりはそういう事かもしれない。
だから、あの方から頂いた言葉の数々は僕の奥底でいつでも息づいているはず
それは映画の伏線のように回収されることを待っているのではないかと思う。
今、あの方ともう一度話したいと思う一方で、それはあまりに軽薄的な自己愛であることが分かる。
僕は自分で考えて、時には迷い、傷つかなければならない。そして、それが生きるということだと思う。
また、生の実感はそうした瞬間に必ず宿っているはずだから

ここに書き込めた圧倒的な感謝の熱量が少しでもあの方に届いてくれることを祈って
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    のわ

    のわ

    大好きなレビュアーさんのようになりたくて いつでも感謝しています。すべての映画に、出会いに、そして何より様々なことを教えてくださったあなたに ありがとうございます。