めっちゃ面白かった。
こんなんねーよwwっていう笑いの中に、でもこんなだったら良いよなって熱くなる感覚が確かにある。
久しぶりにタランティーノの映画を見たけど、タランティーノの映画で初めて「試されている感」を感じることなく楽しめた気がする。(俺はこの名作を楽しむことができるのだろうか。みたいな若干のプレッシャー)
この感覚の違いはこの映画に要因があるのか。確かに5人殺すっていう明確なゴールに向かって突き進む話はストレートに楽しみやすい。
それとも昔の自分と今の自分が何かしら変わってるのか。実際、映画を好きになってすぐの頃(2015〜2016?)とは映画との向き合い方が若干変わってるのは感じる。パルプフィクションを見たのもその頃だった。その変化が良いとか悪いとかはないと思うけど。
今パルプフィクションを見たら感覚の違いの要因が分かりそう。
終わるまでキルビルが2部作だって気づいてなかった。
「ビルを含めて5人殺さないといけないのに、まだ2人目(1人目)と戦ってるけど大丈夫かこれ。ソードマスターヤマトみたいなことにならない?」
っていらぬ心配をしていた。
エンカウント時のSEがステージ制のゲーム感をより強めている。はっきりとステージ制になってる映画には大好きなのが多い。(ワールズエンド、スコットピルグリム、チョコレートファイター)
あと、子供を見せられたり生い立ちを見せられたりで、今回殺した2人の刺客はどっちにも同情させられた。なんかの間違いで仲直りしてくれないかなと思いながら殺し合いを見ていた。
殺し合いの螺旋から誰も降りれないでいる。
クリストファーノーランは10本映画を撮ったら引退するって言ってたけど、これは1本カウントなのか2本カウントなのかどっちなんだろう。どっちでもいいけど。
ぶっちゃけ10本は十分多作の部類で、意味のある縛りにはなってない。なんなら宮崎駿みたいに発言をひっくり返しちゃっても別に良い。そんな実質的に拘束力を持たない誓約によって、自己ブランディングの上で特大のリターンを得てんなって思う。
5人殺したらゴールっていう宣言によって駆動するこの映画同様、10本でゴールっていう宣言は、彼が逐次追加していく作品群全体を一まとまりの作品として見る視点をファン達の内面に作り出す。
そのほかにも、明確なリミットを設定して、そこに向かって少しずつ近づいていくっていう構造には、人の注意を持続させるサスペンス的な効果がある。(もしも「100日後に死ぬワニ」が「そのうち死ぬワニ」だったらあんなに人気になってない)