男と女、それぞれの性に宿る暴力性。
その姿がどのようなものであるのかを、ニコラス・ウィンディング・レフン監督による『ドライヴ』と『ネオン・デーモン』は、原色のように示しているように感じる。そうした意味で、この2作品はコインの裏表を見るような思いもする。
男は、世界を手にしようとする。
そして、刺し違える。
女は、世界それ自身になろうとする。
そして、飲み込む。
身体論を持ち出すまでもなく、それはどこか生殖器を思わせるように、あからさまに純粋な典型を描いているため、この2作品は1つのセットとして、折に触れて脳裏をよぎることになる。
また、こうした欲望の原理に基づいて、女と男の言葉(言語一般)は成り立っているように感じられ、したがって僕の感覚としては、女に届かない男の言葉も、男に届かない女の言葉も、いずれも暴力的なものとなる。
異性であれ同性であれ、他者の欲望を包摂(ほうせつ)すること。それはとてつもなく難しく、しかし、それを志向することがなければ(必ずしも達成することは求められない)、コミュニケーション(交歓)などは求めようがなく、ハラスメント(支配)に終始する。
そのようにして、やがて女は捨てられ、男も熟年離婚される。肉体交渉としてのセックスの満足度と同じであることに、どうして気づかないのだろう。なんて頓馬(とんま)なんだろうと、情けなくて涙が出るほどに馬鹿馬鹿しく思う。