テロメア

CASSHERNのテロメアのレビュー・感想・評価

CASSHERN(2004年製作の映画)
5.0
今から約20年前の2004年。この年に公開された押井守監督作『イノセンス』と本作が、幼き私が豪語していたセガサターンかプレステ1のゲームムービーを見て、これがいずれ単体映画になりアニメや実写と融合するんだ、と言っていたことが現実になって内から震え感動をした二作品だった。

まさか、同じ年にアニメと実写にそういうのが出ようとは。それも考え得るだけで最高の形で。両方ともDVDを発売日に購入。当時の友人知人たちに勧めまくった記憶がある。これからの邦画は明るいぞ、と邦画の未来を楽しみにしていた。だが、残念なことに二作品とも続く者は現れていない。それどころか、前者は知る者はよっぽどの映画通でないと見ているどころか知ってもいない(私が勧めて見た者以外、イノセンスを観て好きだと言っていたのは一人のみ)。で、後者の本作は、めったくそに酷評こそすれ、褒める者など会ったことがない。

本作を酷評する理由に、まず原作があるため「これはキャシャーンではない」というのは、まあわかる。母がリアルタイム世代だったため、当時一緒に見た際、同じことを言っていた。しかし、「キャシャーンではなかったけど、面白かった。(極色彩で)目が疲れたけど」と言っていた。さすがに、フレンダーがあれなのは不満はあったみたいだけれど(のちに私もアニメを見た際に、確かに相棒フレンダーが活躍しなかったのは残念だと思った)、けれど映画は映画と割り切っていた当時の母の姿勢は、原作ものに対する正しい見方だなぁ、と振り返って改めて思う。母はキャシャーンがかなり好きだったようだが、今作を別物ではあるが映画として受け入れていた。自分が思い出補正も込み込みの作品を、全然違うものにされて単体映画として面白いか否かを感じられるのは、なかなか難しいと思う。母のこの映画を見る姿勢は改めて見習わなければならないと感じた。私を映画好きに育てただけある。

本作を妻に勧めて久しぶりに観て(趣味が合う妻は大絶賛だった)、昔は鉄也がワープしてご都合主義だなぁ、と思っていたあんま好きでなかったシーンも、そもそも今作のキャシャーンはあくまで第七管区のキャシャーン神の使いとしての鉄也(キャシャーン)なのであって、その都度、キャシャーン神により人間への雷が落ちたり、使者として鉄也をあっちへこっちへ落とす。それに対する説明台詞がないが、しっかり見れば最初からキャシャーン神から始まっているなど示唆はたくさんある。そもそも新造人間へも神の雷により復活する、その雷の力を不正利用したことにより、その罰として鉄也は(あくまで不正利用は本人の意思ではないため、生前の罪を償うセカンドチャンスとして)使者として遣わされることになる。これらの流れは、キャシャーンのアニメを神話構成したのだろうと感じる。

アニメの実写化で神話ベースとなると、思い出されるのはザック・スナイダーの『ジャスティス・リーグ』だ。もちろん、スナイダーズ・カット版。あちらでは、DCのスーパーヒーローを神話のように描かれている。ザック・スナイダーが現れたことにより、紀里谷和明という監督が本作で描いたキャシャーンが神話のようだとわかりやすくなった。この20年で私自身も映画を観て理解する素養である、教養や人生経験が増えたことも本作を理解する大きな要因となった。年月を経てもなお、初見のときと同じく本作が鑑賞に耐えうるものであり、なおかつ、再度「面白い」と感じられて素直に嬉しかった。妻と共有できたのも嬉しかったが、何より思い出の中の過去の自分と同じ気持ちであれたのが嬉しく思った。

そもそも本作は反戦映画とは違うだろうと思う(邦画のほとんどの反戦を語る無抵抗主義のあれとは違う)。戦争はテーマではあるが、メインテーマは人間対人間の意思疎通に対する行き違いにあると感じる。誰しもが理由があるし、善も悪も内包している。誰かが正しいわけでも、誰かが間違っているわけでもない。誰もが正しい理由を持っているし、間違ったことをしている。それらが争いの火種となり、親子でのすれ違いから、大きくは戦争へと発展することにも繋がる。そんな当たり前のことを真正面から描きつつも、それをキャシャーンとして娯楽性を確保しつつ、映像的にも美しくみせている。CGがさすがに20年の月日を感じるものの、その色彩感覚は未だに群を抜いている。一番はなんでもないシーンでの使い方だ。たとえば、博士が死にひんしているとき、パワードスーツを着た鉄也と博士のみ白く発光した演出がなされ、ルナにはないというところなど、なんでもないワンシーンだがその発光演出は「死」を描いている。そうした行き届いた演出は、過度に感じるかもしれないが、一見するだけではそのすべては把握できない情報量を詰め込んでいることが素晴らしい。

アニメは実写とは違い情報量がどうしても減る。そのため、すべて意図して情報量をあげる必要があると、パト2の演出ノート本にて押井守監督は語っていた。が、これはCGが実写映画に広がったことで、この問題は実写の問題にもなってしまった。風景を写すだけで得られた無数の映画演出外の動き(鳥や動植物、風や空気、建物や車や人々)が、CGで描くとすべて意図して情報量を上げるために意識して描かねばならなくなる。でないと、一回見ただけですべてわかってしまう程度の情報量しかなく、一度で理解できる程度の映画は、見終わったらすぐに他の情報に飲まれて忘れ去られる。つまり、心にも記憶にも残らない程度の映画にしかならない。

しかし、本作はそれを意図して演出している。過度な情報量により、一度見ただけではすべて理解できないようになっている。それは物語を複雑にしているわけではなく、本来平坦になりがちな会話シーンでも、たとえば鉄也とルナが再会後初めてまともに会話するシーンでは、二重演出になっており、実際の戦ってぼろぼろ姿の二人と心象風景の二人を交互に描き、感情的なセリフを落ち着いたモノローグのように話す言葉と同時にすることで、聞き取りにくいところをカバーしつつ、一つのシーンなのに二つのシーンが交互に描かれるため画面に飽きないようになっている。そうした演出を過剰化することで情報量を増やし、2時間内に大量の情報量で圧倒することにより、集中すればするほど脳が疲れるという心地よさを演出している。

これは『イノセンス』でも感じた心地よさで、当時の私はその2作を何十回と観ていた。しかし、それらの追随者は現れずに終わった。アニメは当時業界がバブルだったことで、あそこまで出来たとあとからどこかのインタビューかで知ったが、それらはCG技術の発展とともにアニメとCGのハイブリットは当たり前になった。しかし、実写はそこまでならなかった。特に、映像センス問われる色彩感覚は紀里谷和明監督独自のものだろうとも、CGを使う限り実写でも意図して情報量を上げるということがなされていないため、CGによる綺麗ずぎる映像の氾濫でしかなくなってしまった。

しかも、リアルにしようとすればするほど予算が超過するだけとなる。そこで邦画業界が考えたのは、ハリウッドとは真逆の映画がドラマ予算になったことだった。邦画業界の言い訳が、ハリウッドではないから無理、というものだが、それは違う。CG映像を実写に組み込むという本当の意味を理解していないから、どうせCGでしょ、という映像しかできないし想像できないのだ。だから客足が遠のき、結果としてドラマ予算の映画=ドラマスペシャルになってしまったのだ。それもこれも2004年当時に、本作がもたらした邦画の可能性を理解せずに、こなくそに酷評するだけだったことに原因がある。そもそも未だにリマスターのBlu-rayが販売されていないことに、どれだけ邦画業界が本作に興味がないかということがわかる。

観客には再評価するチャンスがある。ブレードランナーもそうだし、攻殻機動隊もそうだ。常に再評価により業界を変えるほどの力を持つ映画が再臨することはよくあることだ。しかし、それらを演出するのは今でこそYouTubeなど個人チャンネルがあるとはいえ、結局影響力を持ち、なおかつ販売権を有する配給会社ならびに制作会社などが、それらを率先して演出しなければならない。公開から20年、本当に本作はただの駄作なのか、それとも映画としての新しい可能性を示唆した映画なのか、そもそも今見返して面白いのか否か。

映画の再評価は、私は映画好きの特権だと思っている。だから、本作を観てほしい。当時の評判や、映画評論家などの評価、周りの人々のレビューではなく、自分の好き嫌いで感じてほしい。そして、これは私が本作を大好きだからこそ推すことだが、本作が20年前に、そして今でもだが、CGを入れた実写映画に対しての可能性を再評価されていいと思うのだ。これは物語の好き嫌いは置いておくとして(過去の名作でも革新的なことをいくらしていようが、自分は好きでない映画はたくさんあるように。しかし、その映画がもたらした新しさや技術は理解できるような感じで)、再評価されていいと私は本作を強く推したい。
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