トケグチアワユキ

最低。のトケグチアワユキのレビュー・感想・評価

最低。(2017年製作の映画)
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この映画のアウトラインはだいたい把握しているけど、原作者の紗倉まなのことで知っているのは名前と職業だけで、この小説を読んだこともないし出演作を見たこともない。
瀬々敬久の作品も見たことないかな?
メインの俳優もたぶん観たことのない人たち。
唯一ひっかかりがあるとすれば、音楽の入江陽だけ。
すばらしい音楽家ではあるけど、ここでそれを語るのは少しお門違いなので差し控える。

その入江陽がいまGYAO!で観られるよ、とツイートしてたので観てみた。

なんで、こんなタイトルなんだろうな?
卑下してるんだろうか?
ちょっとそれがわからないし、観おわってからもそこに捉われてしまっている。
もしもこのタイトルがそういう意味で付けられているのなら決定的に評価を下げざるを得ないし、タイトルの意味を理解できないと評価のしようがない、というのが本音だ。
(この映画を一回観ただけでは、私は理解するに至っていない)

「最低」ではないし(「最高」かどうかは人それぞれだろう)、したたかというのとも違う、かといって悲哀に満ちているわけでもない。
もちろん社会や家庭の環境/構造から、この物語世界を何世代も生き続けるなんてことは絶対ないし、それは幻想に過ぎない。

私には高岡早紀が演じた母親役がいちばんすんなりと受け入れられる。
ある意味、「だから何なのよ」というスタンス。
こういう世界に縁なく、距離があって、見たくない物もしくは逆にファンタジーとでも言えそうなほど過剰に思い入れている方々がほとんどという現実の中で、興味本位でのぞき見する気持ちはわからないでもないし、それがこの世界の成立要件でもあるわけで否定する気は全然ないけど、ずいぶんと昔ではあるが割と近くに生きていた者としては、なんかこのタイトルにものすごく違和感を感じてしまって後味が悪い。
なんでわざわざという言葉ばかりが頭の中を回っている。
作品としての出来不出来をどうこう言えないほどだ。
スコアは付けられない。


人前でセックスをするのも、言葉巧みに財産を投資に誘うのも、人の収入を調べて一部を社会運営のために出させるのも、職業という意味では変わらないし、自らを恥じたり低く見せる必要などまったくない。
逆に自らの職業を誇れると信じ尊大な態度を取れたり、平然と口にしていられるメンタリティの持ち主には拠りどころはどこにあるのか、教えてほしい。
人が生きていくのに、社会の役に立つ必然さえないと私は信じているし、カネをどう得ようが他人がとやかく言う必要はない。
渡辺真紀子演ずる母親は黙ってバスに乗り続けるしかないし、娘はそれを黙って見送るしかない。


〈初回レビュー翌日追記〉
もしも、私のやっていることにとやかく言うお前ら「最ッ低!!」とか、私の母親のことをコソコソ話してるお前ら「サイテー」の意味でこのタイトルなら、もっともっと周囲の偏見を際立たせないと、わかってもらえなくないか?
お前らの無意識で醜悪な差別って、こういうことだぜって。
未だに親がこうだと子もこうなのかしら、とかレビューで書いてるヤツいるし。
こんなビミョーな映画のことで、なんで私がこんなに最低な気分にならなきゃならないのか。
えっ! あっ! そういうこと?