テロメア

ドライブ・マイ・カーのテロメアのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
非常に好みの映画だった。にも関わらず、満点をつけられない。

理由は、作中で多言語にこだわっているのに、韓国手話がカタコトだと言うこと。手話のできない私ですら「どうして耳が聞こえるのに手話を?」とか思うくらいの人物設定の甘さがある。これは耳が聞こえないと舞台で動けない、けど手話は使いたい(振り付けとして)という製作陣の言語に対する認識の甘さがみえすいてしまっている。実在する言語である韓国手話を、なぜそのネイティブな人を役者として起用しないのか。手話を言語として見ていないことが問題だろう。

劇中に突如として出てくるカタコト言語、それをネイティブだとして扱うというのは本当に痛々しい。この間鑑賞した『ファイナル・カウントダウン』にて、ゼロ戦の日本人パイロットがカタコトの日本語で(あと厳密かは知らないが当時敵性語であったカタカナ英語を使っていたり)喋ったときに、悪い意味で「ああ、映画だなぁ」と冷めたのを思い出しました。上記の映画は米軍の全面協力で本物の戦闘機などが登場するが、そうした言語としてのリアリティが欠如すると、すべてが台無しになるという一例でした。アメリカでの日本語や日本人表現や日本描写はこの時代から変わっていない、という一例でもありましたね。今作もそれと同じように、韓国手話のネイティブな人は一気に冷めたと思います(そもそも聞こえるからこそか、手話の仕方が舌を鳴らすときも手を打つときも均一で、まるで空手の型のようで変でした)。

今作『ドライブ・マイ・カー』と同じように、めちゃくちゃ好みなのに「完璧だ!」と言えないのが『シン・ゴジラ』でした。日系アメリカ人役が石原さとみという、どうしてアメリカの役者で日系人を起用しなかったのか、という残念さ。今作といい、邦画における残念さは、本家本元の役者を起用すればいいだけにも関わらず、それをしないという共通点。全世界共通のダメさなのかもしれないけれど、それを全世界的な流れとして是正し、聾者は聾者の役者になど、流れができてきた昨今において、今作は残念としかいえない。

もう一つは「耳が聞こえるなら手話ではなく筆談では?」とも思う。あくまで手話を使いたかったのなら、ネイティブ手話の役者にすべきだったし、それだと舞台という場では難しかったにしろ、工夫はあったろうに(他の人が喋ったら震えるような機械を使った舞台裏からのアシストなど)。それにネイティブ手話とそれぞれの国の手話も交えた、とするのも面白かったかもしれないが、今作の劇中劇の舞台の狙いは「通じないはずの言語同士の掛け合いをしているからこそ、役者同士が言語に頼らず何かを汲み取り、通じない言語を超えた『何か』が起きる」だったので、他の役者が手話をする必要はないだろうし。なら「筆談として通じ合ったなら?」とも思う。それこそ多言語が入り乱れた筆談している文字が常に舞台に映っていたなら、それはそれで面白かったと思う。

そもそも、耳が聞こえるが声が出ないというのは、音声言語障碍者では、と思う。聾者の映画監督(牧原依里監督)のツイッターでも今作は手話パフォーマンスだと指摘しており、そこで初めて失語症という設定だと知りました。けれど失語症も調べるに、脳が原因で失語症になった場合の脳の状態だと、音声言語だけでなく手話も使えないらしい(他の原因もあるとしても、なぜ手話?)。脳が原因なら同じ箇所が損傷するらしいので。そうしたことを考えると、ますます謎の人物設定なので、この人物が出てくる度にノイズになってしまった。ちゃんとリアリティを保てることをサボってしまうと、どれだけ好みの作風でも鑑賞後のもやもやが残ってしまう。


今作はどの登場人物も、感情を抑えて生きていたり、感情を殺していたり、感情を出さないようにしていたり、逆に感情を抑えられず暴走してしまったり、と、それらが言葉として出ても伝わらなかったり、言葉がなかったから伝わらなかったと思っていたり、ということが、多言語でも伝わる『何かがある』という舞台を劇中劇に据えることで、本当は言葉以外にもお互いに伝わっていたのではないか、伝えられていたのではないか、そう思うと、もしかしたら今からでも思い出の中から『何か』を汲み取れるのではないか、という、過ぎ去ってしまった思い出の中にしかいない人から『何か』を受け取れるのではないか、というメッセージが、主人公が再度舞台で避けていた役を演じることで、その先の『何か』を自分の中から出して演じようとする。そうした流れがとてもとても好みでした。だからこそ、すべての言語をネイティブ役者が演じるべきだったと思います。まさに画竜点睛を欠く、という状態でした。好みだからこそ残念でした。
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