shabadaba

All the Vermeers in New York(原題)のshabadabaのレビュー・感想・評価

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「彼は死んだ。永久に死んだのか?誰がそうと言い切れるだろうか。降霊術の実験も宗教のドグマと同様に魂が不滅であるとは証明できない。ただ言えるのは、この世では、あたかも前世に負わされた義務を背負って生まれてきたかのように全てが運ぶということだ。この地上での生存条件では、必ずいいことをして、細かな心遣いをせねばならないと考える理由、礼儀正しくなければならぬと考える理由さえなく、教養ある芸術家が同じ作品を何度も書き直さねばいけないと信じる理由もどこにもない。その作品を人に感心させたところで虫に食われた彼の肉体には何のこともない。わずかにフェルメールと推測されるだけに過ぎないこの芸術家が、知識と技巧、全てをもって描いたあの黄色い壁のように」
アドルノにも引用された『失われたときを求めて』の一節で幕を閉じるこの映画は、男の視線のもとで欲望の対象となる絵画と女が金銭を媒介して、等号で結びつけられる。だが、絵画=金銭=女という等式は、被写体がこちらにその生々しい視線を送り返すときに崩壊する。そして、言わずもがな、この視線は劇中の俗っぽい男、マークだけでなく、我々観客にも送り返される。エマニュエル・ショーレ演じるアンナは何度も扉を開けて登場する冒頭において既に、観客たちを撹乱する。オフで唇を震わす不快な音が流れる中で、アンナは何故か服装を変えて観客たちの前に姿を現す。時間的な連続性が崩される。『失われた時を求めて』に登場する作家のベルゴットが、『デルフト眺望』の黄色い小さな壁を見つけ出そうとして死んだように、マークも観客もアンナに何かを見出そうとするが、結局徒労に終わる。マークがいくら感動的にアンナへの愛を伝えたところで、電話を媒介している時点で、金銭=女という等号はマークの中に保存されている。このことの致死性に気づかないから、マークは金銭を操る武器であった耳から血を垂れ流して死んでいく。女はフェルメールの絵画の女のように我々に視線を送り返して、映画は幕を閉じる。芸術家の魂の不死を称えた一節は、アイロニーへと変わり、マークと観客の鼓膜を震わせる。
反射したショーレが見事に額縁に収められるショットは、異様なまでに美しい。
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