#1話
ZZガンダムを全話見終わって、次はVガンダムが見たいなーと思っていたらちょうどガンダムチャンネルで配信が始まった。ラッキー。何話まで配信されるのかはわからないけど…
大人の事情で4話が1話にすげ替えられており、話は意味不明なので、初見の人はwikiであらすじを読んでから見ることをオススメします
ところで、「最初は子供向けで始まったけどシリアス化した」といえば、(テレビシリーズとしては)前作のガンダムZZと一見同じに見えるんだけど、ZZが子供向けに企画されながら、コミカルさが不評なのでだんだんシリアスになっていたのとは違って、Vガンダムは、企画こそはむしろ「大人向け」だったんだよな。
実際、納品済みの1話では、後の残酷描写を先取りするような、虐殺された丸焦げの死体の山とか出てくるし…その死体を見たカテジナのセリフはあまりにも不穏で、とてもヒロインとは思えない
大人向けで制作をしていたところ、放送直前に子供向けへの方向転換を強いられ、放送順が変えられ、中盤までは子供も楽しめるように(制作中のものも含めて)修正していったのだろう
(バンダイにバイク戦艦を出すように言われたのが放送3ヶ月前――5話制作中の頃だったと『それがVガンダムだ』で証言している)
そんなわけで、元々大人向けの企画だったVガンダムが、(シリアス化しても子供向けであり続けたZZガンダムと違って)大人向けのシリアスアニメになったのは必然だったのかもしれない
いや、当時のサンライズの身売りやバンダイからの圧力で精神や制作を滅茶苦茶にされたことによる富野の鬱もだいぶ影響を与えたのだろうけれど……
しかし、声変わりしたんか!?ってなるくらい若いな、阪口大助
#11話
1クール目終盤だが、Vガンダムを象徴する1話だと思う。
前話でシュラク隊なる、いかにもアニメらしい美少女部隊が出てきたが、まさかのここからしばらく、毎話味方が死んでいくという…
子供向けの枠としてはロックすぎるというのはもちろんのこと、今の週間テレビアニメ・ドラマの中でも異例中の異例作品だろう。
そもそも本作は(1st世代がガンダム離れをしてる中、唯一SDガンダムだけが人気だったことから)「子供向け」という制約で、ガンダム史上最年少の13歳を主人公に据えているわけで…それでなんでこんなことになったのか?と話題になっただろうVガンダムだが
Vガンダムが「こんなことになった」のはまさに、「子供向け(最年少主人公)」という制約を与えられたからだろう。
第6話の衝撃展開――敵キャラであるはずのワタリー・ギラが
「こ、子供が戦争をするもんじゃない…。こんな事をしていると、皆おかしくなってしまうぞ…。そうなる前に、モビルスーツを降りたほうがいい…」
と言って泣きながら主人公の眼前で自殺する――は、まさに富野由悠季の本音であり、上層部やスポンサーへの怒りに他ならないのだろう。
Vガンダムでは"見方の大人達"は皆揃って、子供であるウッソを(その操縦スキルを買って)戦わせようとする。敵の大人達が皆、「子供を戦わせようとするリガ・ミリティア(連邦軍)にドン引きしている」のとはまさに正反対であるが、この鬼畜な"味方の大人"というのは、富野由悠季にとっての"味方の大人"であろう。
「13歳の子供を主人公にして戦争させろって?バカじゃないのか?だったら見せてやるよ。子供に戦争をさせると、どういうことになるのか……」という富野由悠季の怒りが聞こえてくるようである。
ユーゴスラビア紛争に傷つく東欧を事前に取材していたというのだから、なおさら「子供の戦争」なんて許せなかったはずだ。
そりゃあ、「ウッソだろお前!?」と言うのも当然だし、「V=ヴィクトリー」なんて皮肉たっぷりのキレッキレなタイトルも付けるよなぁ。
しかし、そんなハードなストーリーに対して、バイク戦艦アドラステアとかドラゴンMAドッゴーラとか、メカ周りの世界観は一応子供向けの体裁を保っている(バイク戦艦とかもバンダイから強制されたもので本人は絶望したそうだが)ので、まぁ頭がおかしくなりそうである。
また子供だけでなく、シュラク隊からも明らかに反発心が見えて。
なぜならシュラク隊の登場は、「セーラームーンみたいな美少女戦士を出せ」というスポンサーの要請に従ったからで……
その要請を聞いたときも、富野由悠季は思ったはずだ。「女性だけの集団が戦争に参加しなくてはならないなんて狂ってる」と。
(ある意味では女性差別的な思想かもしれないが、まぁ時代的には真っ当な発想だろう。劇場版新訳Zガンダムでも「戦場で女性を利用する男なんてまともじゃないよ」ってカミーユに言わせてるし)
それどころか、ガンダムを見て「戦争」ではなく「戦記――エンタメ的な戦争の消費(ミリタリズム)――」に興奮するオタクすらにも、怒りをぶつけているように見える。
それが感じられるのが、シャクティと1歳のカルルである。もうね、なんかある度にカルルが泣いてんのよ。これがまぁ、戦争のエンタメ的な消費のノイズなのである。
非富野ガンダムでは、たくさんの1stあるいは富野由悠季演出のオマージュ・パロディがされているが、富野ガンダムの見所は、赤ちゃん(あるいは文句や勝手なことばかりする老人や幼児などの戦争遂行の邪魔になる存在)がちゃんと存在感を持って描かれるところだろう。
確かに「戦争」をエンタメ・ゲーム的に楽しむ戦記(ミリタリズム)作品や、戦意高揚作品には彼等のような存在は邪魔でしかないが、富野由悠季は、ちゃんと「(本物の)戦争」を描くことで、戦争の面白さを描きながら、同時にちゃんと反戦の心を忘れていない。
特にこの14話では、MS戦をやってる足下で花の種を植え始めるシャクティという、キレッキレのエグい演出が映える。
これは明らかに、「こ、子供が戦争をするもんじゃない…。こんな事をしていると、皆おかしくなってしまうぞ…」という6話のワタリー・ギラの発言が現実のものになり始めたことを描いているだろうが…
ここで素晴らしいのは、彼等がちゃんと(文字通り)「地に足の付いた」存在であることで。
富野由悠季はロボットだけでなく、ちゃんと「土」を描くのだ。
当時(93年)の世間の人々が、もう完全に崩壊した(投機)バブルを見ようとせず、お立ち台にボディコンで現実逃避しながら踊り狂っていた――地に足のついた仕事や暮らしを忘れていたのが許せなかったのだろう。
だからこそ、Vガンダムの主人公はこれまでのガンダムと違って土や海と共に暮らしていた地球出身者で、最後も(これまた過去のガンダム主人公とは違って)地球に帰ったのだろう。
しかし、Vガンダムは本当に劇伴がかっこいい。劇伴のクオリティなら、富野ガンダムではVガンが一番なのでは?
歌曲なら前期OP・EDも超名曲だが。
#15話
ついに宇宙に出て、久々に人の死なない…どころか戦闘もない地味な回。
だが、SFアニメとして見たらかなり見どころのある回では?
いや今でこそプラネテスとかゼロ・グラビティとか、船外活動でスペースデブリを(SF的科学考証に則って)取り除くとか、よく見るようになったけど……93年にこれを TVアニメで丁寧に描いているのは凄いと思う。
もちろん小説ではリアルなEVA(船外活動)なんていくらでも描かれているだろうけれど……映像化されたものでは、もしかしてVガンが初めてなのでは…?
ウラシマ効果によるSFドラマを世界最初に映像化した『トップをねらえ!』といい、この頃の日本はSF先進国だからな…
しかしガンダムチャンネルのVガン配信、例によって唐突に終わってしまったので、サブスク入り直したよ!
ガンチャン、もう1クール分しか無料配信はしないのかな…と思ったらZは引き続き配信してるし、ようわからんな。
#17話
たぶん、ガンダム初の総集編回。
だが、脚本と絵コンテを富野由悠季がやっているので、まぁ普通の総集編ではない。
そもそもVガンは序盤の時系列が狂っていたり、例によって説明がまったくなかったので、敵の視点で今までの事件を回想・説明してくれるのはありがたい。モビルスーツ名などもテロップで説明してくれるのはこの回だけだし。
しかしなんといってもこの回の白眉は、「ウーイッグへの空襲で市民が犠牲になる映像」を流しておきながら、セリフ上では「民間人に犠牲はありません」となっているところ。
(おそらくは大人の都合で)総集編をしながらも、女王マリアがこの国でどういう存在なのか、ザンスカール帝国という国の実態をサラッとえぐり出す手腕には脱帽です。
Vガンダムという作品の世界観はわりと特殊で、これまでの1st~F91まではオーソドックスな未来のSF的世界観なのだが、Vガンダムは、技術や文明的には超未来のものなのに、ザンスカール帝国だけは全体的に中世ヨーロッパ風のデザインで、しかも、ギロチンによる恐怖政治に、神懸かり的な力を持つ女王が治める宗教国家というのは、中世どころか古代的ですらあり…(女王に威光や権威はあっても権利はなく、政治的実権は奪われている…というのは、昔の日本っぽくもあるが)
∀ガンダムやナウシカのような文明崩壊後の世界ならともかく、こんな世界はあり得るのか?と最初は思っていたが…世界最先端だったはずのアメリカが、非科学的なキリスト教原理主義団体を母体とするトランプが二度も政権を握り、自然科学ではなく聖書に則った教育を始めている州もあるというのだから、全然ありえるのかもしれない。
さすが、「暴力の中心は戦争からテロリズムに変わっていく」というシナリオ・テーマを9.11以前に『閃光のハサウェイ』で書き、91年に現代のロシア・ウクライナ戦争で用いられている軍事ドローンそっくりな無人自律型殺戮兵器「バグ」を登場させた、時代の30年先を行く富野由悠季なだけはある。
……ただ、その中世的宗教国家の実質的跡継ぎが「シャクティ」という完全に93年当時のオウム増長を意識したネーミングのキャラクターというのは…富野由悠季としては案外、ちゃんと当時の現代を見つめていたのかもしれない。
ちなみに、これまでVガンダムのMSは影の少ないのっぺりとした作画だったが、不評を受けてか、この辺から過去作のようなベタやグラデトーンで影を付ける作画に変わっていく。またそれに合わせて、MSだけでなく、人物作画のクオリティも上がった気がする。
こうなると、当初はなんだか地味なガンダムだなと思っていたヴィクトリーガンダムも、ZやZZのゴチャゴチャした感じから解き放たれ、初代ガンダムの正統進化版といった感じで、腰つきもドッシリしていてかっこいいと思えてくるのだから不思議だ。
ぶっちゃけV2ガンダムより断然、ヴィクトリーガンダムの方がかっこいい…
(光の翼はかっこいいけどね。ちゃんと本編内では「欠陥」扱いになってるのも◎)
で、明らかになるカイラスギリー要塞だが…
まぁ完全にネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲なわけで(阪口大助だし)。普通に考えたらただのスタッフのおふざけだが(冨樫義博もよくこういうデザインをお出しするよね)、ザンスカールが実権を男に支配された女王国家であることを踏まえると、わりと考えてしまうところのあるデザインである。
もっとも男性性の象徴であるカイラスギリーは結局失敗し、後半では女性性の象徴であるエンジェル・ハイロゥがザンスカールの決戦兵器となる。
ストーリー自体も、シャクティという女性によって戦争が終結することを考えると、ファーストやZガンダムのような男性性が支配していた世界からの脱却を描いていたのだなと。
#21話
2クール目の折り返し地点に位置する、このVSカイラスギリー編は戦記モノとして非常に面白いパートで、Vガン前半の最大の盛り上がりどころだと思う。
圧倒的不利から逆転するための奇抜な作戦、因縁のモビルスーツ戦に、迫力の艦隊戦からのリアルな白兵戦…
特に、艦の動力源が核爆発を起こしそうになり、敵味方で協力してそれを止めようとする現地兵たちのシーンが描かれるのがたまらない。
これも、ドラマの中核になるのではなく、ほんの1シーンであっさりと済ますところが戦場のリアリティを演出していて良いのだ。
慣れない宇宙戦(何しろ本当は音もなく、ミノフスキー粒子のせいでレーダーも使えない無音で孤独な世界で自分の目だけを頼りに戦わないとならないのだ)でウッソは何度も九死に一生を得る展開があり、前述の(戦況全体では問題にもなっていない)核爆発問題も含めて、戦場がいかに、理不尽かつ唐突かつ無慈悲に命が奪われる世界であるかを描いている。
しかしもう一つゾッとするのは、マイクロウェーヴを直接艦隊に当てて、敵兵の体調をぶっ壊して攻めるという、明らかな〝非人道的作戦〟を、13歳の主人公ウッソの発案というのが恐ろしすぎる。
しかもウッソはその直前で、生きているかもわからないシャクティを探すために宇宙を駆け回っていたのに、ここではその妹同然のシャクティがいる艦隊に向けてマイクロウェーヴを照射させ、「シャクティ…当たらないでくれ~!」とギャンブル精神でミサイルをぶっ放すことをことを容認してしまっているというのは……やはり、戦争に慣れすぎて(歴代最強のメンタルを持つはずの)ウッソも狂いだしているんだろうな。
先の話にはなるが、第28話では、姫とわかったシャクティを〝人質〟として戦略を立てたりもしてる(オデロはそんなウッソにドン引き)し…
まさに、序盤でのワタリー・ギラの遺言
「こ、子供が戦争をするもんじゃない…。こんな事をしていると、皆おかしくなってしまうぞ…」
の伏線が回収されていて、ゾッとしてしまう。
さらにこの辺りからは、容赦ない戦争要素に加え、Zガンダムのような大人なドロドロ恋愛劇が繰り広げられるようになるのもポイントだ。
いや人によってはマイナスポイントかもしれないが、個人的にはマーベット×オリファー×ジュンコの三角関係はたまらなかった。
しかしマーベットもジュンコも大人なので、子供の前では和解しているというのが、私情や恋愛トラブルを戦闘に持ち込んでしまうオデロやカレルとの比較になっていて、また良い。
しかし、富野由悠季は本当に「お姫様」が好きだよなぁ…
お姫様って意外と男は憧れないもので(むしろ憧れるのは女性)、その点で富野由悠季の性癖はやはり珍しいと思う。
#29話
「恐ろしい拷問」と次回予告で煽っておいて、何が描かれるのかというと、なんと全裸の敵の指揮官お姉さんとの入浴。しかももみくちゃになる。
たぶんこれ、スポンサーとかから「少年が喜ぶようなサービスシーンを入れてくれ」と要請されたんでしょう。しかし富野由悠季が易々とそれを受け入れるわけがなく、これまでに
「(子供向けにするために)子供を主人公にしてくれ」→「子供が戦争で狂わされる話にする」
「(セーラームーンが男にも人気だから)美少女戦隊を出してくれ」→「全員死ぬ」
と容貌を満たしながら意趣返ししてきたように、今回も、「性的拷問」としたのだろう。当時は「男ならラッキーでしょ」とか言われたかもしれないが、今の時代なら完全にレイプ扱いです。
それは富野由悠季本人が「あれは、嫌いな女子にセックスを強要されたようなもの。男子にとってこれ以上の拷問はないでしょう」とコメントしていることから、(確かに絵的にはウッソはルペ・シノの胸も揉んでいるし、スポンサーの要望は満たしているものの)ウッソにとっては(サービスなんかではなく)本当に〝拷問〟だったんだろうとわかる。
(なので、あのシーンでウッソが勃っていることもありえない。その後のマルチナとエリシャの前でどうだったかは知らん)
だって、乳首を思いっきり噛んで逃げるなんて…そうとう嫌ってないとできない芸当である。女が男の性器を噛んで逃げるようなものだからね。
まぁ、味方のかたきだし、めちゃ凶悪残忍な人物なので当然であるが。
そして(乳首を噛まれた)ルペ・シノはその後、歪んだ母性に目覚めていくという展開に向かっていくわけで…
本当に、ただのサービスシーンからここまで描き出さんとする富野由悠季のキレっぷりに脱帽です
(いや誰のアイデアかは知らないが…少なくともラストの「あ、おちんちん」というセリフに関しては、絵コンテを担当したガンダムSEEDの福田己津央から、富野由悠季が勝手に足したものだという証言がある)
そしてこの「歪んだ母」というテーマは、次話の、ウッソと実母との邂逅にも持ちこまれることになる。
#30話
ウッソの旅の目的の一つであったはずの「母との邂逅」がなされ、ストーリー的には1つのターニングポイントであるはずだが、なぜかここで総集編。
といっても序盤部分しか回想していないので、総集編というよりかは、V2ガンダム登場で見始めた新規層向けのおさらいなのかな…
ただ、例によってただの総集編にはなっていなくて…
このウッソの母親が、完全におかしい。
我が子を想って泣いているのに、我が子が兵器として活躍することを望み、その戦果を喜んでいるという…親子の再会の感動も、総集編もふっとんでしまうレベルのヤバさである。
ガンダムといえばロクでもない親父(でも優秀)な奴ばっかだったが、ウッソの母ミューラは、まさにテム・レイの性別反転版みたいな存在だ。
だがそもそもこのVガンダムという作品では、「子供を戦わせようとするリガミリティア(味方)」と「子供の戦闘に参加させることにドン引きしているザンスカール」という構図が最初から最後まで続いているので、これもその一環なのかも。
味方であるはずなのに鬼畜のリガ・ミリティアには、明らかに、富野由悠季にとって敵か味方かわからなくなってきたサンライズ上層部が反映されていよう。
しかしVガンダムのハロはマジで優秀すぎる…立派なパイロットだろコレ
#31話
オリファー回(とシャクティイライラ回)だが、個人的には前半の、なんにも手伝えることがなくてふがいないというシャクティに対するスージィの
「いや~、あるよ。おさんどんに洗濯、お風呂のしたくと食料の買出しと。これさ、女の仕事っていうんじゃなくてさ、人間が生きていくうえで、もっとも大事なことなんだよ」
というセリフが凄いと思った。誰が書いたか知らないけど、93年にこれは凄いだろう。
つーか正体が判明してから、(今までのかわいそうという同情を上回る勢いで)株を下げていくシャクティと反比例するように、スージィが優秀・有能になっていくんだよな…
#33話
Vガンダムの企画としての面白さは、「13歳の子供を主人公にして戦争させろって?バカじゃないのか?だったら見せてやるよ。子供に戦争をさせると、どういうことになるのか…」という富野由悠季の怒りが聞こえてくるような、サンライズ上層部やスポンサーへの反骨精神にあり、子供向けということで最年少主人公ではあるが、そのストーリーやテーマはまったく子供向けではないハードなものだが…
MS用タイヤのアインラッドや、バイク戦艦アドラステアにドラゴンMAドッゴーラなどのメカ周りの世界観や、機転を利かせたトリッキーなゲーム的戦闘に、ある種リアリティラインを壊すような活躍を見せるハロなど、アクション関連は一応子供向けの体裁を保っているので、もうなおさらいっそう頭がおかしくなりそうなんだよな…
(内容と反しすぎる「V=ヴィクトリー」などという恥ずかしいタイトルも同じ)
ドッゴーラとか、マジでどうやって操縦してるのかわからないし(切った部分はビットみたいにサイコミュで動かしてんのか?)、水中でも(障害物は多いだろうし)有利に戦えるとはとうてい思えないし……
ぶっちゃけ「スーパーロボット」よりだとさえ言え、「リアルロボット革命を起こしたガンダム」を破壊しかねないものである。
特にこの32・33話はやたらとコミカルな描写が多い。
そんな謎回が、重要キャラ、およびたくさんの民間人が死に耐えるドシリアスな31・34話に挟まれてるんだから、まぁ頭がおかしくなりますよ……
そう考えると、キャラ・ストーリー・テーマ・メカ・戦闘と全てが大人向けなのは、(富野ガンダムでは)Zか逆シャアくらいなのかもね。
#34話
「子供向けにしろ」という上層部やスポンサーからの要請への反骨精神から、メカや戦闘周りは子供向けなのに、ストーリーやテーマは大人向けという…Vガンダムという作品としての歪さがもっとも良い形で表れた展開の1つが、このバイク戦艦による地球クリーン作戦(巨大ローラー作戦)だろう。
完全におふざけみたいなお話だが、やってることは完全な「民族浄化作戦」であり、めちゃくちゃハードな展開である。
しかも「環境汚染する火薬を使わずに(環境汚染をやめない)民族を浄化する」手段としては、巨大バイクというのも世界観としてはリアリティがあるのだ。
(結局それを止めるためにリガ・ミリティアサイドは核爆発を用いるわけで、これもまたザンスカールのプロパガンダの思う壺なのだ)
他、唐突さを感じないように、序盤からザンスカールにはタイヤやバイクに関連する意匠を盛り込み、タイヤに詰め込めるように始めから敵MSは丸いデザインにしているなど…
子供向けのデザインでも、スーパーロボットではなく、リアルロボットになるように設定や演出を練っていくのが富野由悠季の凄まじいところである(「山本裕介に聞いた 『機動戦士Vガンダム』30年目の真実」より)。
このバイク戦艦について富野由悠季は、リアルな世界観を設計していたのに放送3ヶ月前――5話制作中にバンダイからいきなりバイク戦艦を出すように(出さなきゃ降ろすと)言われ、絶望しながらも組み込んだと『それがVガンダムだ』で説明している。
こうした絶望から例の「見てはいけません」に繋がるわけだが…
『グレートメカニックG 2023 SUMMER』でのVガンダム放送30周年記念インタビューでは、富野由悠季は「バイク戦艦は今見返したらちゃんと作品にフィットしていた。やるじゃん富野」という旨の発言をしている。そう、ちゃんとフィットしているのだ。無茶ぶりにも誠実に応える富野由悠季は本当に凄いと思う。
また今見ると、ザンスカール側は「地ならし」と何度も台詞で言っているように……近年、読者を震え上がらせた『進撃の巨人』の地ならしの元ネタのようにも思えるんだよな。
やってることは完全に同じだし、民族浄化という目的も同じ。まぁその点では、そもそも「巨大ローラー作戦」自体、「アクシズ落とし」のリファインとも言えるが……
#36話
いわゆるトラウマ回。「バイク戦艦w」とか言って笑ってたところからこの展開はまさに狂気。
しかし、どうも首(ヘルメット)がぽーんと飛ぶところや、「これ…母さんです」のセリフばかりが有名だが…
(そもそも本当のセリフは「よく…わかりません…母さんです」であり、有名な方はことぶきつかさのパロディセリフである)
今回の白眉は、その後(母の首を渡した後に)泣き崩れるウッソとシャクティにエリシャが日傘を差して影が落ちるシーンだろう。
また生首を目の前にしながらも、シャクティにおぶられてかわいい寝顔をずっと見せているカルルもまたエグい。
まさに、生と死の残酷なまでのコントラスト。〝ギロチン〟というVガンダムを象徴する意匠も合わさり、キレッキレのコンテ回し(あるいはレイアウト)である。
絵コンテも脚本も富野由悠季ではないが…絵コンテを描いていた福田己津央や山本裕介は、(2人とも今までそんな風に直された経験がないほどのベテランにも関わらず)描いた絵コンテの5~9割は富野由悠季に修正されたとか、絵コンテのクレジットがなくてもほとんど富野由悠季が描いていたようなものとか、シナリオにない要素・展開も絵コンテをガンガン追加されたなどの証言があるし、また「事前に用意していたシリーズ構成の役職が途中でなくなり、富野由悠季が実質的なストーリー構築の主導権を握っていた」と幾原邦彦も話しているので…まぁ十中八九、富野由悠季の凶行と言っていいでしょうよ。
子供向け(最年少主人公)でこの展開自体がエグいのは言うまでもないが、それが休戦協定直前の出来事であった(後少し早ければ母を救えた)こともまた残酷。
しかし当のウッソからしてみれば、休戦協定が結ばれてしまったせいで、その場で復讐ができなくなってしまったことが一番辛かったのかもしれない。
このやるせなさや理不尽さは、終戦直前での沖縄戦の(自決を含む)悲劇を想起させるもので、「子供が戦う(ことになる)戦争」の現実を(上層部やスポンサーへの当てつけもありながらも)、残酷なまでに描いていよう。
#41話
ファラの再登場…は、ぶっちゃけZZでギャグ枠だったキャラ・スーンやマシュマー・セロが遂げた狂気の再登場を考えればそこまで意外性はなく、それよりも意外だったのはタシロの再登場である。
お前生きとったんかい!
しかも、こっそりキシリアに重用されたシャアとは違って、普通に堂々とエンジェル・ハイロゥ護衛艦隊の指揮官に就任してる謎。
しかも後に43話で、そもそもタシロがギロチンにかけられそうになったのはカガチへの反乱の意思を見抜かれたからと説明されており、なおさら、なぜそんなやつが重要な指揮官職を…?と疑問が深まる。
ファラは「カガチが再度『利用』しようとした」とか言っていたので、本当はタシロが反乱を起こさずとも、タシロ艦隊は捨て駒とかに使うつもりだったのかもしれない。
なお小説版では、そもそもあの処刑は国民のガス抜きで、細工済みのギロチンで芝居を打つ旨をタシロも事前に了承済みであった…のだが、刑の回避後にギロチンを調べたところ細工の類は施されていなかったため、カガチへの猜疑心を募らせることになった…という設定になっている。
まぁこれなら筋は通るが…カガチはなぜまだ使い道のあるタシロを本当に処刑しようとしていたのかが、よくわからんことになるな…。
あと、宇宙漂流刑はSMプレイだったらしいし、マリアにキスもするし乳も揉む。セックスシーンもやたらと多い、まさかのエロ担当ポジション。「こんなところで、死にはせん。まだまだ、おまえの股座に顔をうめて、おまえをよがらせてみせなければならんのだ」という名言もある。髪型がそっくりのピピニーデンとどこで差が付いたのか…慢心、環境の違い…
ついでに言うと、「タシロ・ヴァゴ」という名前からして意味がわからない。最初は日系なのかと思ったが、タシロはファーストネーム(しかも英名は「Tassilo」)なので、全然日系ではない。
しかし、大気圏外から地表を狙い撃ちできるって…いくらなんでもザンネックがチートすぎる。
「史上最強のMS」の名は伊達じゃないが…これもまたドッゴーラと同じで、スパロボに片足を突っ込んだ機体かと。
なおこの回は山本裕介と富野由悠季が連名で絵コンテを描いており、冒頭の戦闘シーンは山本裕介が、それ以降のコンテは富野由悠季がゼロから描いたという。
山本裕介によるとシナリオにはなかったシーン・演出も大幅に追加されている…どころかシナリオとは全然違う展開になっているといい、確かに、ウッソが父と再会するシーンなどは、テレビアニメというよりは、非常に映画的なカット割りになっている。帽子を直すなどの小道具の使い方も良い。親父っぽいもんなぁ。
もっとも山本裕介が言うには、そもそも絵コンテを描いても8~9割は直されて帰ってくるので、クレジットがなくてもVガンダムの絵コンテはほとんど富野由悠季が描いているようなもの…とも言っているのだが。
#44話
酷い…あまりにも酷い…。
それもこれも、全てはシャクティの「病気」のせい……
というのは、完全なるミスリードである。
この異常な戦争空間において、他の子供達が皆、戦争(レジスタンスのゲリラ戦)の遂行に最適化されたメンタリティ・思考になっている中、シャクティだけがまっとうな倫理観・価値基準で動いているために、頭のおかしい――病気――ようなキャラに見えるだけで。
本当におかしいのは、ウッソやオデロたちで。あるいは、彼等をそんな「戦争マニア」にしかねないことをしてきたマーベットやミューラたちで。
もちろん彼等だって、やりたくてそんなことをしてきたわけではないし、ウッソたちも完全なる被害者ではある。
そこで思い出されるのはVガンダムの冒頭のナレーションだ。
「地球を汚染してしまった人類が、宇宙に移民をする時代になっても、地球上と同じようにに戦争の歴史を繰り返していた。それは、新しい環境に適応しようとする、人の本能がさせていることだと思いたい」
ウッソたちが「作戦遂行に最適化された兵士」になったのは、「戦争」という新しい環境に〝適応〟しようとした「人の生きる本能」でもあるのだろう。
その中でシャクティだけが〝適応〟を拒み、カサレリアで土と花と友に生きてきた時代の〝生き方〟を貫いただけである。
しかし冒頭のナレーションであるように…戦争の歴史を繰り返し続けているのは、〝適応〟した人類のせいなのだ。
人類が皆、シャクティのような〝病気〟だったら…宇宙世紀から戦争はなくなっていたのかもしれない。
……まぁあとは、死亡ネタバレをガンガンにしながら「見て下さい!」と毎回迫真に宣言(回を追うごとに迫真になる)する死神のような次回予告と、ことぶきつかさのパロ漫画の犠牲者であろう…
しかし、お手本のような死亡フラグとはいえ…
まったくの新キャラの、恋愛の成就からその破滅までを約20分で描き、ちゃんと感情移入させる(しかも戦闘シーンもある)って、本当に凄いことだと思う。
#45話
まさかの3度目の総集編。初の総集編回があるテレビシリーズでどころか…ガンダムシリーズの中でも(種死を除いて)一番総集編回が多い作品なのでは?
しかしVガンの場合、総集編がただの総集編ではないために見逃せない回となっているのが凄いところ。1回目と3回目(今回)は脚本・絵コンテ富野由悠季だしね。
なんと〝過去の幻影を見せられる〟という展開で総集編を描くという…
しかもその見せ方が、非常に虚実入り交じっており、宇宙空間に浮かぶウーイッグの街やカテジナさんなどは非常に幻想的。
しかも後半には(人が死にまくったVガンダムならではの)〝死の総集編〟を見せることでウッソ(と視聴者)の精神を耗弱させるという展開で、シナリオ展開にも即しているし、演出としても秀抜。
この辺の、手抜き(現場のトラブル回避)と演出を両立させる手腕は、まさに庵野秀明がエヴァで何度もやったことで。
「Vガンダムなくしてエヴァはなかった」と言うほどエヴァがVガンダム影響を受けていることは散々語られているが、それは主に、ストーリーとしての陰惨さや陰鬱さ、狂っていく女達――その本音と生理を嫌と言うほど少年に突きつける展開――、監督の鬱を作品に反映させる手法などだとされているが、こう見ると、演出もだいぶVガンダムから影響を受けていることがわかる。
ウッソ「ウーイッグのカテジナさんでしょ!?あなたは家の二階で物思いにふけったり、盗み撮りする僕を馬鹿にしていてくれればよかったんですよ!それが…」
カテジナ「男の子のロマンスに、何であたしが付き合わなければならないの!」
というやり取りなんか、まんま人類補完計画が発動した後のシンジとアスカのやり取りと同じだしね。
あと初号機(光の巨人)の「悪魔の羽」は、絶対V2ガンダムの「光の翼」から取ってると思うし。なんなら19話でゼルエルの血が自分のATフィールドに反射するシーンも、前44話の、ヘルメットのバイザーに血が反射するシーンを想起させるし…
「人類補完計画」の元ネタも、一般的にはコードウェイナー・スミスの『人類補完機構』から来ているとされているが、これはネーミングだけで、その思想性(全人類から諍いをなくすよう〝退化〟させることで人類という種を〝人工進化〟させる…と言いながら、その裏には1人の男の絶望が元凶としてあるとか)は完全にエンジェル・ハイロゥから来ていると思う。
さらにSF考証的な元ネタとしては、諸星大二郎の『生物都市』だろうし。
使徒の英名が「apostle」ではなく「Angel」なのも、エンジェル・ハイロゥが元ネタだという示唆かも…とも思うが、設定的には、これもまた諸星大二郎の『生命の木』と『死人帰り』だよな。
シンジ(真実)の名前も、ウッソ(嘘)の反対のような気もするが…これはさすがに「樋口真嗣」が元ネタか。父との確執も最初はガンダムっぽいと思ったけど…これも『プロフェッショナル』で、庵野秀明自身のテーマっぽいことが示唆されてたしね。
しかしこのエンジェル・ハイロゥ…正直言って、1stガンダムの、それ以前のロボアニメとの最大の違いが「リアリズム」であったことを念頭に置くと、世界観を壊しかねない性能だよなぁ
エンジェル・ハイロゥだけでなく、ザンネックやドッゴーラ、バイク(タイヤ)周りのMSは完全に〝リアルロボット〟ではなく〝スーパーロボット〟に片足を突っ込んでると思うし…
この辺は、最初は、あくまでVガンダムは〝体裁〟としては子供向けだったから、メカやアクション周りだけは荒唐無稽のキッズ的チューニングがなされてる…と思ってたけど、よくよく考えるとVガンダムって(今の正史的には)宇宙世紀の最終章なわけで。
この後の宇宙世紀の歴史としては、もう完全に宇宙が荒廃して衰退に向かっていくので、科学文明のレベルとしては、Vガンダムの世界が最高潮という設定だったはず(Vガンも意匠や政体は中近世に逆行してるけど)。
そう考えると、Vガンダムのテクノロジーが1stの世界観を破壊しかねないというのも、自然(リアル)なことなのかもしれない。
1stの時代はVガンダムから120年程前の時代で。1900年代から2020年代の技術の進歩を思えば、MSの開発やミノフスキー粒子の発見、ニュータイプの研究がされてた時代から1世紀以上が過ぎているのだから、この程度のテクノロジーの誕生もありえるといえばありえそうだ。
そんな〝時代の隔世〟をもっとも思わせるのは、Vガンダムにおけるニュータイプの扱いだろう。
そもそもVガンダムから約30年前の時代のガンダムF91で既に、「ニュータイプ」という言葉は、〝パイロット適性が規格外に高い人間〟という扱いになっている。これまでの、「直感力に優れた人間」でも「並外れた共感力」でも、まして「超能力者」でもなく。
これはどういうことなんだと思っていたが…Vガンダムを見て納得。
ウッソは(本来ニュータイプになり得ない)生粋の地球人――アースノイド――だが、ニュータイプと呼ばれているし、確かに旧来のシリーズのニュータイプを思わせる活躍を見せる。それはつまり、アムロのような驚異的な直感力の良さから来るMSパイロット適性だ。
しかし宇宙に適応した人類――スペースノイドでは〝旧来のニュータイプ的な能力者〟はありふれたものになっていて。彼等はニュータイプではなく、「サイキッカー」と呼ばれている。しかもザンスカールだけで2万人も集められているのだから、アースノイド全体ではもっといるはず。
そしてサイキッカーには、〝旧来のニュータイプ〟には不可能だった病気の治癒や視界の共有などの能力が可能であり、これを持って「サイキッカーとニュータイプは別」という意見も見るが…
1年戦争時から半世紀以上――人類が宇宙に進出して150年――が経っているのだから、ニュータイプの能力は1st~逆シャア(あるいは閃ハサ)の時代より遥かに進化していると考えるべきである。
Vガンダムで、ウッソ(主人公)が地球人のニュータイプだったのは、もしアースノイドを主人公に据え、そして当然のようにニュータイプとして描いた場合、完全な超能力者になってしまい、無双状態になりかねない(あるいは互角状態を作るために敵も能力を戦闘に用いるサイキッカーになり、MSバトルが超能力バトルになってしまいかねない)ので、主人公は地球人にせざるを得なかったのではないだろうか?
そういう意味で言うなら、ウッソはニュータイプでありながらも、これまでの主人公とは違って、敵対ニュータイプ(vガンダムで言うならサイキッカー)の方が遥かに格上の相手だったのだとも言える。
そしてVガンダムの時代では、サイキッカーとは言えないレベルの〝弱いニュータイプ――旧来のニュータイプ〟は、サイキッカーないしニュータイプなどという〝特別な呼称〟で呼ばれることはない。
なぜならこの時代にはニュータイプの特殊性――サイコウェーブ――が完全に科学的に解明され、バイオセンサーやネオサイコミュなどの発明で、非ニュータイプ(非強化人間)の脳波でもニュータイプ同等の力を発揮できるテクノロジーが存在しているからだ。
その結果、ニュータイプ神話やニュータイプ論は衰退した。
しかしその一方で、「大昔には天才的な操縦で英雄的活躍を見せた、ニュータイプと呼ばれたエースパイロットがいた」という言い伝えだけが残り、結果として、F91以降の世界では〝パイロット適性が規格外に高い人間〟がニュータイプと呼ばれるようになったのだろう。
カガチが「ニュータイプは地球から生まれる」という説を唱えていたのは、過去の戦争で天才的な操縦で英雄的活躍を見せたエースパイロット――アムロやカミーユ、ジュドー――が地球連邦側だったから、という事実から生まれた説なんじゃないかな。
ジオン側にもニュータイプはいたけど、結局ジオン側は毎回負けているので…
ところで、ガンダムのニュータイプをZ(初代の続編)で「サイコウェーブ」という形で科学的に説明して兵器転用したのは、ジョージ・ルーカスが神秘の力であった『スター・ウォーズ』のフォースをEp1(初代の続編)で「ミディクロリアン」と科学的に説明してしまったことをなぞったのだと思っている。
またあれだけNT兵器や強化人間製造が行われた宇宙世紀1世紀後半から半世紀後のVガンダムの時代には、あれだけ科学的に解明されたはずのニュータイプはただの伝説と化していて、まぁ隔世の感を覚えたものだが…
これもSWのプリクエル→オリジナルで風化したフォースやジェダイの虚しさを想起させるよね。
…ところで、「トッリ・アーエズ隊」は…いくらなんでもやっつけネーミングすぎませんか、御大…
#49話
バイク戦艦による地球クリーン作戦に次ぐ狂気。水着のおねーさん特攻。
クレヨンしんちゃんの劇場版とかで描かれそうなふざけた作戦だが…
バイク戦艦による地球クリーン作戦がテーマ(民族浄化・非核プロパガンダ)的には全然おふざけではない、Vガンダムという作品にふさわしい展開で、かつ全然おふざけではない残酷な展開となったように、この〝水着のおねーさん特攻〟もまた、テーマ的には理に適っているし、やはり全然笑えない残酷な展開である。
(ちなみに水着なのはただの放送表現上の配慮であって、セリフから察するに本当は裸のはず。小説版も裸だし)
ビームサーベルでの焼却もだいぶエグイとは思っていたが、生身の人間をMSで殴るのは、意外にも過去の全ガンダムシリーズで一番エグいと感じたシーンだったかもしれない。
Zガンダムでは「手に血がつかない人殺しでは、痛みは分からんのだ」というシャアの名言があったが…この方法で殺していたら、(直接手に血はつかないとはいえ)だいぶ心は痛むと思う。下手したら、銃殺よりも手に伝わる触感はありそうだ。ニュータイプだったらなおさら。
しかし、度重なる戦争によってウッソが〝戦争マニア〟化しかけていたからなのか…それともエンジェル・ハイロゥがウッソの精神を鈍化させる逆効果を与えていたからなのか…ウッソには効かず、カテジナもついに衝撃を受け、ある意味ではウッソをただの子供ではなく〝男〟として認識するようになるのだった(そして50話の「私を奪い合う男」に繋がる)。
#50話
いやーつらい。情緒的に熱くてかっこよく、思わず涙ぐんでしまうところもあるが…冷静に見ると救いがない。
リーンホースJrの特攻ばかりが語られがちだけど、その前にナイチンゲールの特攻が失敗していることは忘れてはなるまい。
こういうアニメで〝一番の胸熱場面〟として扱われがちな特攻が軽々と敵に潰される(しかも特攻クルーは全滅させられる)展開って、まず他では見られないのではないだろうか。
(まぁ最終話でまた別の活躍を見せることにはなるのだが)
そしてリーンホースJrの特攻も、まぁジジイ達がかっこよく見えるのだが…よくよく考えるとコイツらは子供達を戦争に参加させ、ウッソたちを狂わせた張本人でもあるので、今さら「若いやつらは死ぬことはない」的な態度を取られても、うーんというところがある。
…でしかも、この〝若いやつらを生き残らせるための特攻〟…成功したように見えるものの、この直後に若い人達が死にまくっており、その後(次回)でももっと若い子供達が死にまくってることを考えると……うーん、救いがない。そうです。特攻に救いがないことは、日本人なら知ってるはずなのです……。
この辺の〝ヒロイズムの否定〟はやっぱり、学生運動世代だなぁと感じる。
だって、この富野由悠季・宮崎駿世代より少し上の西崎義展・松本零士が作った『宇宙戦艦ヤマト』は(このVガンダムと真逆で)完全に特攻のロマンや情緒――ヒロイズムを描くタイプだもの。
西崎義展も松本零士ももちろん反戦主義者ではあるが…
富野由悠季が特攻兵器を作っていた父親を死ぬまで肯定・理解・和解できなかったこと(だから富野ガンダムの主人公は基本的に父との葛藤を抱えている)や、宮崎駿も戦闘機を作っていた父親と終生和解できず(『ポニョ』の頃には多少は見直すことができるようになったらしいが)、憎悪の感情すらあったこと(それは『君たちはどう生きるか』を見たら一目瞭然である)を考えると、陸軍航空隊のパイロットだった父に憧れ、キャプテン・ハーロックや沖田十三のモデルにしたことを松本零士とは、やはり世代観的にはだいぶ隔たりがあると言えるだろう。
事実、富野由悠季自身、朝日新聞デジタル&Mでの「「アムロ父子の確執は創作ではなかった」 40周年『ガンダム』富野由悠季監督が語る戦争のリアル」で
「(ガンダムには戦記物の要素が色濃くあることを踏まえた上で)一方で、それだけでいいのかという思いもあった。『ヤマト』のように「滅びの美学」で終わらせるのはちょっと違うんじゃないか、と」
語っている。
宮崎駿も、某特攻感動映画にブチギレてたし、宇宙戦艦ヤマトは大嫌いだし…
ちなみに「学生運動世代」と言っても、正確には富野由悠季・宮崎駿は60年安保の方で、富野由悠季は学生運動に直接参加はしていないものの…思想的には、この世代特有のものを背負っていることは間違いない。
なお70年安保の典型的な学生運動世代は富野由悠季より少し下の世代の安彦良和であり、この思想上の違いが結局別離を招くことになったという。
しかし、最終話目前にして盛りだくさんすぎるぜ…。
2度の特攻だけでも十分なボリュームなのに、ここにカテジナ無双が加わるのだから。1時間スペシャルかと錯覚してしまう。どういうコンテ切ったらこんなアニメが作れるんだ…?
とにかく、カテジナさんがバケモノすぎる。パイロットとしても、人間としてもバケモノ。
たった数分間の間に、単騎でシュラク隊3人を撃破って。しかもこれまで〝クロノクルを追いかけてた〟はずなのに、いつの間にか立場が逆転しており、〝愛するではなく愛される女〟になっているという…
「思う存分愛してあげる」の中身が、まさか最終話のアレだなんて…予想できた人はいまい。
「戦争の恐ろしさ(トラウマ)」を子供達に植え付けるのは、意味のあることだと思うが…「(現実の)女の恐ろしさ(トラウマ)」を植え付ける必要は…あったんでしょうか…?
まぁでも、これを見てエヴァを制作する活路が開いた庵野秀明という人もいるので…アニメ界に果たした価値は非常に大きいモノであったか…。
なおZガンダムでもよく見られた、この〝裏切る女〟というテーマについては、富野由悠季自身は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』で「意識的に描いているわけではない」と言いつつも、「安彦良和と離別した影響が少なからずある」とも述べている。
女ではなく、まさかの男。なるほど、だから1stガンダムでは〝裏切る女〟がいなかったのか。
まぁ、安彦良和と(思想的に)別れたことについては(ファンも)ずっとひきずってるからね…
もうひとつ注目したいのは、ついに明かされたカガチの目的。
帝国的な世界征服ではなく、(自分たちも含めた)人類絶滅計画だったという…
これも宇宙世紀最終章ということを踏まえると自然なテーマ設定かもしれない。
ぶっちゃけ
「増えすぎた人類こそ真理を踏み越えたのだ。そういう人類は消えたほうがよい」
「一人の頭でっかちの老人のおかげで人類が全滅するなんて!僕たちが新しい方法を編み出して見せます!」
「その自惚れが人類を間違えさせたんだぞ!」
「僕たちが出来なければ次の世代がやってくれます!」
というウッソとカガチのやり取りは、まんま『逆襲のシャア』での、地球にアクシズを落とそうとしたシャアと、それを止めようとしたアムロのやり取りそのままで。
で、このシャアの言い分には、いつまで経っても戦争をやめない人類、腐敗をやめない組織に対する富野由悠季の絶望(ペシミズム)があり、またその一方アムロの言い分に、新しい世代(ニュータイプあるいは子供達)、人類への希望を捨てられない(捨ててはいけないと考える)富野由悠季の希望が投影されていることは、逆シャアの感想で書いた通りだが…
このウッソとカガチのやり取りもそれと同様のものと見ていいだろう。
しかし、逆シャアの頃はまだアムロに正義があったというか。シャアのやり方はやはり〝性急〟すぎるし、〝悲観的〟すぎるだろうと多くの人が考えたはずだ。だからこそアムロや、アクシズを止めようとする他の兵士に感情移入し、感動できたわけで。
だけど…あれだけ逆シャアでアムロが希望を信じて戦ったのに、結局、テロリズムに頼らなければならないほど連邦の腐敗は止まらないし、その後アースノイドや各コロニーの自治権が実質的に認められてここで戦争が終わってもいいはずなのに、今度はコロニー同士で戦争始めるし…
ここまでの宇宙世紀を追っている視聴者としては…もう、マジで人類滅んだ方がいいんじゃないかという気になってくるんだよな…
そりゃあ絶望もするし、悲観的にもなるよ…
…そして、その意志を継いだ庵野秀明は、シャアやカガチのような敵側ではなく、主人公シンジに人類補完計画を発動させ、「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」になっちゃうし、『進撃の巨人』も同様に、地球クリーン作戦――地ならしを主人公がやってしまう。
希望を信じていた(信じなくてはならなかった)70~90年代前から、95年を経て、日本は本当に絶望の時代になったんだなぁと…
ただまぁ、人類補完計画にしろ地ならしにしろ、一応は失敗しているのがまだ救いか。
(以下、最終話込みで軽ネタバレ)
…で、実際。
ウッソやシャクティらが人類――次の世代を信じてザンスカール帝国を倒した宇宙世紀はその後どうなったのかと言うと。
一応サンライズ公式の漫画『クロスボーン・ガンダム DUST』によると、連邦と無関係のリガ・ミリティアが当時の最大国家であったザンスカール帝国を倒した(本当は連邦の力なくして打倒はできなかったのだが、そこは喧伝されなかったらしい)ことで、連邦の影響力はさらに低下。
いよいよコロニー戦国時代は苛烈になり、各コロニーが戦い合う時代になったという。
しかし環境の悪化とコロニーの維持も不可能なほどどのコロニーも資金繰りに困った結果、科学文明的にはVガンダムの頃がピークで、その後は既存のテクノロジーやMSを修繕し使い倒す斜陽の時代になっている。
だからジオンとの戦争やザンスカール戦争のような大規模戦はなくなり、紛争が各地で延々と続く泥沼の様相となっているらしい。兵器レベルの衰退もあり、多くの人が一気に死ぬような戦争はなくなったことはいいことかもしれないが…(現代地球の紛争地域が平和とは言えないように)人類が平和を手にしたとはとうてい言えない未来である。
ただ、この『クロスボーン・ガンダム DUST』は富野由悠季は噛んでいないので、もしかしたら富野由悠季の脳内正史では、Vガンダムの後には平和が訪れた…という解釈もできなくもない。
だが、現在では(ミーム的な意味での)黒歴史扱いされがちながらも一応は富野由悠季監修の『G-SAVIOUR』(発表は2000年、舞台は宇宙世紀223年)では、やはりコロニー同士の度重なる紛争を経た末の未来(地球連邦の解体)が描かれている。
しかも、長谷川裕一が『クロスボーン・ガンダム DUST』を描く際に唯一サンライズ側から受けた条件は「Vガンダムに登場した技術を上回るものを出してはいけない」だったことを考えると…富野由悠季の脳内的には、やっぱりVガンダム後にもコロニー同士の戦争が終わらなかったことは確定っぽいんだよなぁ。
うーーん、宇宙世紀…救いがない!!
なお、Gレコで語られていた宇宙世紀末期の食糧危機については、Vガンよりはるか未来の話なので、別に思うところは特にはない。それだけ先なら破滅もするでしょうよ。
またGレコでの食糧危機危機描写を持って、『G-SAVIOUR』の食糧危機解決事件と矛盾しているのでG-SAVIOURはなかったことになっている…という論もたまに見るけれど、宇宙世紀末期ってGレコに従えばUC1000年頃の話なので、UC200年代のG-SAVIOURのテクノロジーが食糧危機を解決したとしても、その先800年もあればどうとでも破滅すると思う。
#51話(最終話)
いや~わかってはいたが、すさまじい最終話。皆殺しの富野…黒富野の極み…鬱最高潮…最多死亡ガンダムの名は伊達じゃない。
だってVガンダムの公式サイトに載ってるキャラの内、最下部の「地球連邦/その他」のキャラ(彼等は多くても3話程度しか登場しないほぼモブキャラで、唯一サブキャラポジションはムバラクだが彼はちゃんと死ぬ)以外では、生存確定してる人間、9人だけだぜ!?
戦闘要員に絞ったら、なんと味方サイドでは子供の主人公と妊婦の2人だけ!
まぁ犬とかハロとか、あと生死不明ながらも生きている可能性が高いトマーシュ・カレルを足したらもう少し増えるけど…
いやしかし、マーベットさんが生き残ってくれて本当によかった…幼い子供も死んだイデオンを作った富野由悠季なだけにビクビクしていたが、流石に妊婦は生かしたようだ…
逆に言うと、Zで同じポジションだったエマ中尉が死んだことや、『ベルトーチカ・チルドレン』で(チェーンと違って妊娠していた)ベルトーチカが生存したことを考えると、妊娠していなかったら多分死んでたんじゃないかな…ありがとうオリファーさん!マーベットさんに子種を残した後に逝ってくれて!!
(いやマジで。ガンダムシリーズで一番好きなキャラ、エマ中尉とマーベットさんなので…。次点でエルかファかハマーン様かな…って、女ばっかだしZとZZばっかだな!)
…というところで、まさかのfilmarksの最大文字数を超えてしまったので、この続きは51話のエピソードごとの感想欄へ!
ところで、filmarksの最大文字数、調べても出てこないし…文字数制限に引っかかった人も見当たらないんだけど…
filmarksの文字数制限に引っかかった人、もしかして自分が初?