おたくの設定
資料的価値というおたくのためにあるような言葉があるが、その言葉にアイロニカルなまでに忠実に、ゆえに半ば確信犯的なフェイク・ドキュメンタリーという構成になっている。
ビデオテープオタクの一人が、自分たちは作家性の分析などせず、ただコレクションを完璧にする、と言っている。サークルの全員で目を輝かせて眺めていたのもマクロスの設定に関する詳細な資料であり、ひいては各ジャンルの人脈やネットワークなんかも完璧なコレクションの一部のようだ。
さて、ではなぜこれがアイロニーなのかというと、この映画が去りし日のおたくサークルの他愛もない生態を網羅すること以上に、資料であることを志向しているからだろう。
のちにこのビデオが資料的価値を持つものとしてコレクションされたとき、当時の「おたく」への世間からの視線も含めて(小難しく言えば再帰的に)描かれていなければ、それは「網羅的」とは言えないというような極めてコレクショナリーな視点があったのだろう、と推測する。つまりおたくは単にコレクションをする者から、コレクションされるモノに(も)なるという意識。つまりこれはおたくによる「おたく」の設定資料なのだ。
ドキュメントフッテージが挿入される場面に当時起きた事件が唐突にインサートされるのも、この自分たちこそが被資料になる、という予見というか志向というか自らへの突き放した視線を感じさせるが。ま、ああいうのも何らかのおたくだけには通じる引用なんでしょうけど笑。という訳で、これがどう受け取られるかは、"分かるやつには分かる"と、いったところでしょうか。