見ながら、そして見た後の自分のメモ
演技力に寄りかからず、かつ生きている
たっくん曰く、出会いと繋がり
腹を割って話すことだけがつながりじゃない
一緒に過ごすということ、一緒にいるということ
自分が食べるものや飲むものを選ぶ
一緒にいる
アクションに合わせたカット割り
カメラで捉えるという視点のあり方もアクションの一部になっている
アケルマンと違う時間(=カメラ)の映し方
人や場所が変わっても、心を配る言葉がそこここにあったね
たまに、かなり、ちょいちょいくさいんだけど、私はなぜかこの映画を信頼していたのだった。
この時間が確かにあるというパワー
実存性に、信頼を寄せ、物語を読むことができるというこの感覚
演出として
この物語の社会の構築は、キャスト各々に関係の名称だけ(何か、語で言うところの表面的な意味。奥の意味は与えない)を与えることで成り立ってるような、印象。
相手に対して、自分が相手の中に住まうような感覚で想ってしまうと、この物語の社会は、また違ってくる。
演じていく上で、そうなっていくのはいいのだが。
関係性のドラマの表出は不必要。
実際はわからないけど、なんというか、あくまでフィクションだと知っている自分として、作品であるというフィルターをかけた視点で見たとき、こういうイメージ。
並走する人がいる、ひとり旅
「ここじゃないどこかへ」を相手に求めない
カラオケボックスでの停滞、事件
カラオケを中断するという行為、何か核心
停滞するとすれ違う
皆、ここまで自分が辿って来た道に、これからも導かれていくしかない
あとさきを考えないという軽挙さを手放し、堅実さを手にしそうなところにいる人たち
すげえな新宿
こんな飲んだの久しぶり卒業してからだってさ、そっかちょうど10年だね
経過した年月を数えることはしないところ。経過した年月に無自覚であるところにリアリティさをおぼえる。
ラストシーン(車が走り出すとこ)の車窓、外の街灯
ラストシーンとして、とんでもねえ希望