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素人の乱のHiRoのレビュー・感想・評価

素人の乱(2008年製作の映画)
2.5
 最初から端的に表明してしまえば、わたしは「素人の乱」のような社会的、あるいは政治的闘争に乗ることはできない。
 3.11以降においても、「素人の乱」は脱原発運動を展開していくが、3.11以降から現在まで「素人の乱」的な方法を採用しては雲集霧散してきたのではなかったか。それは、「マルチチュード」(ネグリ=ハート)とも言い換えていいだろう(少し付言するのであれば、「素人の乱」はマルチチュード的側面もあるが、やはり「文化左翼」的であり、閉鎖的である)。
 だが、ここで注意すべきなのは、「素人の乱」的な方法を採用する者たちが愚かだと批判することではない。むしろ、「素人の乱」のような方法でしか運動に挑めない現状があるのである。それは、1956年のスターリン批判、68年、そして91年の冷戦崩壊以降のリアリティである。

 上映終了後、初対面の方とお話をさせていただいたが、自分が問題としていることと似た問題意識を抱いていて驚いた(というよりは嬉しかった)。それは、簡略してしまえば、1956年以降における党なき時代の、「党」はいかにして可能であるかと言えるだろう。
 昨今、「マルチチュード」を唱えていたネグリ=ハートは、"Assembly"において運動の水平性を批判的に議論している。また、ニック・スルニチェクも水平的運動に対して「素朴政治」と批判している。そして、ジョディ・ディーンは、まさに「党」こそが必要なのだと主張している("Crowds and Party")。いまこそ、マルチチュード的、水平的運動の総括が求められていることは確かである。そして、先の展望への建設的議論と研究が喫緊の課題なのである。
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