晴れない空の降らない雨

プレーン・クレイジー/飛行機狂の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

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 『ミッキー・マウス』シリーズの第1作。大西洋横断に成功した実在の飛行士チャールズ・リンドバーグに憧れるミッキーが飛行機を作り(というか献身的な動物たちに作らせ)、ミニーと共に出発するも制御が効かずに大暴走……という話。

 第1作といっても、一般公開としては『蒸気船ウィリー』がミッキーのデビュー作であり、同作のほうが遙かに名高い。。本作と第2作『ギャロッピン・ガウチョ』は元々サイレントだったが、『蒸気船ウィリー』の後で音を追加して公開された。
 こうした経緯の背景には、本作は試写まで行っていたのだが、ちょうどトーキーが実用化された時代だったため、トーキー用に作られた『蒸気船ウィリー』をデビュー作にした、というウォルトの判断があった。こういったエピソードから窺えるのはウォルトが最初からトーキーの力を確信していたことだ。当時は誰しもそうだったわけではない。
 
■ミッキーとミニーが可愛くない
 この判断が賢明だったことは、両方の作品を見比べれば大方納得されるだろう。『蒸気船ウィリー』の大成功によって、カートゥーンにおいて音という要素が極めて強力な味方であることが分かったのである。リズムと動きの同期が「ミッキーマウシング」と呼ばれるくらい、音は重要な存在となった。
 しかし、それ以外にも本作が『蒸気船ウィリー』に見劣りする要因がある。本作のミッキーとミニーが全然可愛くない。本作からミッキーの短編を見ていくと、ミッキーとミニーのデザインが作を追うごとに洗練されていったことがよく分かる。
 本作のミッキーは、一言でいえばまだまだ「ネズミっぽい」。手袋と靴がないのも動物っぽさを増している。また、瞳の下の線にも注目される。そして小さい。自分がネズミであることをわきまえているサイズ感だ。1930年代を通してミッキーはどんどん巨大化し、人間になっていく。
 
■独特な奥行き表現
 本作で興味深いのは奥行きが意識されていることであり、しかもその表現の独特さだ。冒頭からして奇妙だ。タイトル後の黒画面は単なる本編への間ではなく、初期作品の常連である雌牛(クララベル・カウ)の尻の超クローズアップであり、クララベルが奥に進むことで観客の視界が開けていく、という始まり方である。
 しかしこのオープニングショット、単純な動きとはいえ相当数のキャラクターが同時に動いている。ミッキーをデザインし、本作を1人で描いたアブ・アイワークスは本当にとんでもない人間である。早々にディズニースタジオから独立してしまうため(後に出戻りしてからも大活躍)、長らく過小評価されてきたが。

 とりわけ本作で印象的なのは、暴走した飛行機がクララベルを追いかけてそのまま激突…と思いきや体内を突き抜けていくシーンである。クララベルを追いかけるシーンは、あたかも操縦席にカメラを置いたようなアングルで描かれており、のちに宮崎駿も好んで使う背景動画が使われている。
 ここでも「手前から奥へ」というアニメーションによる3D表現が、今からすると拙いながらも追求されていることが分かる。また、やはりクララベルの体内に入り込むときに画面がブラックアウトするが、この後のシーンでも車やら電柱やらに突っ込んでいく度にブラックアウトが繰り返される。クライマックスとなる飛行機の墜落と幕引きでも同じ手法が執拗に繰り返される。ここで試されていたのは、Z軸のアニメーション的な誇張表現といえるだろう。もし3DCGで本作をリメイクしたら、クララベルの尻が眼前に迫るように画面から飛び出てくることは想像に難くない。
 
 このような誇張された3D表現をアブ・アイワークスが追求していたであろうことは、シリー・シンフォニーの第1作『骸骨の踊り』からも窺える。しかし、本作のようなアニメーションによる立体表現のやりすぎは、今でも奇異な印象を与えるし、大衆ウケを狙うにしてはアイワークスのこだわりが強すぎる。その意味でも、本作を第1作にしなかったのは英断だったと思う。
 実際、本作や『骸骨の踊り』のような奥から手前への急速な運動は、アイワークス去りし後のディズニーではあまり見られなくなっていく。
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