トリュフォーの脚に対するフェティシズムは画面への発露として病的なレベルで貫徹されている。
幼児が10階から落ちても死なないように子供への視線は楽観性を内包する。瑞々しいオープニングと映画館でのキス。
冒頭でクロードはブランコで足を怪我したのちアンと出会い、彼女の慫慂によって杖無しで歩いて見せる。本作は男女の相互作用による罹患と治癒の物語であり、そしてそれはまさに恋愛それ自体でもあるのだ。
つまらないけどマグニートはヴィランとしてなかなか魅力的だった
冒頭のクローズアップ、取調室のライティング、ラストの印画紙に浮かび上がるイメージ。マイルスのトランペットは当然最高なんだけど、良すぎるがゆえにモダンジャズが映画を喰っている。無軌道な若者は一寸陳腐だし>>続きを読む
アントワーヌシリーズ最終章。
『大人は判ってくれない』の瑞々しさは失われ、自戒的にシリーズ過去作を引用する様子や、それでも新たな恋は始まり人生は続いていくのだと述懐するかのようなラストシーンは成熟とい>>続きを読む
アントワーヌシリーズ。
冒頭の執拗に脚を追行する横移動から始まり、終始ミニスカートを履いたクリスチーヌの脚をカメラは捉え続ける。一方、アントワーヌのキョウコとの交錯点であるブレスレットが象徴するように>>続きを読む
面白い。いけ好かないインテリかと思ってたら狂人だったという。「あれ」が着陸するシーンは絶対にあるべきだと思うが、技術的に難しかったのだろうか。
最高の駅馬車襲撃そして主人公二人の邂逅と対峙から、途中話がよく分からないまま進んでいき、分かったような分からないような気分になったところで一対一の殴り合いに回収される、かと思いきやさらに荒唐無稽な展開>>続きを読む
公衆電話によるすれ違い。拳銃ではなくバカでかいショットガンなのが良い。奥さん役の人が当時別居中だったトリュフォーの奥さんによく似ていたという話があり何ともいたたまれない気持ちになった。足、脚。
生え抜きの現場対インテリというよくある構造よりかは菅原文太と松方弘樹の恋愛映画という印象の方が鮮烈である。
冒頭のクールなドリー、安っぽくて矢鱈と長い列車のシークエンス、そして素晴らしいラスト。不思議なバランスだが面白い。生気のない画面に浮かび上がる、肌が白すぎるカトリーヌ・ドヌーブにゾッとする。