6話で構成されるドラマ。誘拐されるまでの政治家、同僚の内務大臣、ローマ教皇、赤い旅団の女性、政治家の妻、誘拐された後の政治家という異なる人物たちに焦点を当てて事件を多面的に描く。『羅生門』的な証言の食>>続きを読む
イギリス帝国主義時代の物語。いちどは神として迎えられた白人が人間であることが露見して弑される。現地人たちは最初から最後まで徹底的に異物だ。東南アジアの河を遡行して王となった『地獄の黙示録』でもこの構図>>続きを読む
主人公は階段を二度転げ落ちる。幼少期の落下は身体に刻印を残し、壮年における落下は死をもたらす。短躯の主人公に人々が投げかける視線や言葉は精神を歪め、愛する者たちに対してもいじけた当て擦りを吐く。主人公>>続きを読む
イーストウッドの『ホワイトハンター ブラックハート』で描かれたように、ヒューストンは本作の撮影中象狩りに熱中していたという。他の充実した作品に比べると気迫に欠ける。薄汚いハンフリー・ボガートと老嬢のキ>>続きを読む
プロフェッショナルたちによる宝石強奪プロジェクトもので、プロフェッショナルたちだけでなく、プロジェクトの完遂を阻害した悪徳弁護士が妻や愛人と語らうところまでしっかり描かれる。主役スターリング・ヘイドン>>続きを読む
開けた土地で敵味方の歩兵の大部隊が横列に対峙する古典的な会戦。そこに投入される兵士たち。戦場を離脱した(脱走した)オーディ・マーフィーは森を駆け抜けあてなく彷徨った末に部隊に帰還する。そして次の戦闘で>>続きを読む
期待せずに赴いた36年ぶりの再見でノックアウト。パーティの場面は次々に綴られる参加者たちのエピソードに引き込まれてしまう。狭い屋内空間にも関わらずなんと豊かな表現であることか。そして面倒な酔っ払いを含>>続きを読む
マーロン・ブランドが妻の愛馬を乗りこなせずに藪の中を疾駆し落馬するまでの荒々しさ。馬に八つ当たりして嗚咽するブランドの脇を全裸で通過して馬をいたわるロバート・フォースター。原作にはあったという二人の育>>続きを読む
医師と傷病兵の会話が切り返しで描かれ、ときにはクロースアップも入り、それでいて同時録音でカメラが回る音も入っている。最低3台のカメラが同時に動いているはず。もちろんまばゆいばかりの照明が当たっている。>>続きを読む
冒頭、くたびれた街角にくたびれた人々(おもに黒人)が佇んだりたむろったりしている。次いで、街角の人々以上にくたびれたステイシー・キーチが狭い部屋の中で起き上がってズボンを履くまでワンショットで捉えられ>>続きを読む
幌馬車隊が砂漠を進む。女たちが幌馬車の脇を歩いている。また急斜面ではロープで補助しながら幌馬車を降ろしていく。ケリー・ライカートが『ミークス・カットオフ』で本作を本歌取していることがよくわかる。ゴール>>続きを読む
李礼仙、安藤昇、根津甚八、宍戸錠、それに小松方正といった面々が暴れまくる俳優たちの映画。唐十郎の状況劇場テイストだとか日本と韓国・朝鮮の関係の隠喩だとか、あるいは非PCな(政治的に正しくない)描写の数>>続きを読む
モノクロ画面に捉えらえた降雪や吐息。学生たちへの怒りや女への接吻の唐突さ。ホン・サンス映画で随一の効果を上げるズームとパン。長回しの会話に挿入されるコート姿の女。微妙な差異を伴いながら反復されるエピソ>>続きを読む
不倫カップルが窓際でまぐわっているとき、男の母親が隣室で声をかける冒頭の下ネタから飛ばしている。表彰式に同行する人々を巡るドタバタの展開も快調。小説家の現実世界と小説家の作品内が交錯したり、ベルイマン>>続きを読む
随所にルノワールの刻印があるもののシャブロルの『ボヴァリー夫人』と同様にあまり感興湧かず。ヴィンセント・ミネリ版やソクーロフ版はどんなものか。ちなみに、"Madame Bovary at the Mo>>続きを読む
オープニング場面では奥行きの構図や鏡を駆使した静かで緊密な描写が続く。証券取引所では無数の人々がひしめいて怒号が飛び交う。笑顔を見せないモニカ・ヴィッティも、胡散臭い証券会社社員のアラン・ドロンも役柄>>続きを読む
ジョゼファの背中に入った蜂をトニが手で探る。アルベールとジョゼファが一緒に白いシーツを広げる。陽光あふれる屋外における男女の交感が官能的。オープニングとエンディングはイタリアやスペインから到着したばか>>続きを読む
『夏をゆく人々』ではジェルソミーナ、また『幸福なラザロ』ではタンクレディという登場人物名によってフェリーニやヴィスコンティに言及し、本作ではついにロッセリーニの娘を出演させるに至った。田舎の人々が古代>>続きを読む
ヒロインのティッピー・ヘドレンを巡る緊張感あふれる人間関係の数々。小鳥屋で出会ったロッド・テイラー。テイラーへの思いに生きる教師スザンヌ・プレシェット、息子に執着する母親ジェシカ・タンディ。こうした関>>続きを読む
警備員が黒い制服で赤い腕章をつけているのがオサレ、というか1930年代のドイツやイタリア。もちろん黒い制服は闇に沈む。
再会した男たちに出会ったことを覚えていないと言う女が次第に不気味に見えてくる。「飲んだ/飲まない」や「約束」を巡る噛み合わない会話からずっと不幸そうだった男が、この女のすべてを受け入れた後に幸福な顔に>>続きを読む
冷戦下だっただけに、元ネタの『ニノチカ』よりいっそうソ連の珍奇ぶりが強調される。でも嫌味がなく楽しい。アステアとチャリシーの歌舞が素晴らしいのは言うまでもないけれど、かのピーター・ローレの踊りが見られ>>続きを読む
事件を起こしながらなお同じ町に住み続けるゆるぎないジュリアン・ムーア。不躾に踏み込んでくるナタリー・ポートマンを迎え入れても動じない。一方で、自分が作った菓子が無駄になると激しく動揺する。年下夫のチャ>>続きを読む
最近作のスタイルとは違うけど紛れもなくホン・サンス。時折不穏な瞬間のある長回しの会話で、飲み屋の卓上にはチャミスルの空き瓶が並ぶ。審美的な構図とか光とは無縁の薄っぺらい映像から眼が離せない。本作では登>>続きを読む
原作に親しんでいなくてもそこそこ楽しめる。鈴木亮平の立ち回りや銃扱いは立派だし、森田望智の熱演を見ていると寺島しのぶの芸風を継承するのはこの人ではないかと思う。フランスのフィリップ・ラショーによる『シ>>続きを読む
火山島の貧しい漁村にワケありの女が来る。火山島の荒涼とした風景、それに荒々しいマグロ漁。これはまるっきりロッセリーニの『ストロンボリ』ではないか。と思ったら、本作の成り立ちがそのものがワケありだった。>>続きを読む
ヴァルダとバーキンによる前作『アニエスv.によるジェーンb.』より強く心を打つ。前作が劇映画の趣向を入れ込んだドキュメンタリーであるなら、こちらはカメラの前の事物を捉えてドキュメンタリーに仕立てた劇映>>続きを読む
初回作『ポワント・クールト』以来、ヴァルダは劇映画でもドキュメンタリーのようにカメラの前にある現実を捉えることに注力してきた。本作はジェーン・バーキンのインタビューを主軸に、バーキンを活人画に登場させ>>続きを読む
試走コースやミッレミリアでクルマが高速で走行する場面はお約束ながら手に汗を握る。一方でエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)が正妻と愛人の間を行き来するドラマは、厳かに描かれるけれどあまり感興が湧>>続きを読む
『アニー・ホール』以前のアレンの初期作を通して見ると、スダンダップ・コメディアンのコント集から徐々に映画としての語り口を得るとともに作風を確立していったように見える。本作も練れていない。大人数の会戦場>>続きを読む
素朴な信仰者が聖者の啓示を受けてから受難の憂目に遭うという物語。これは『アモーレ』の第二部に通じるものがあるし、イタリア漁村の風土や人がドキュメンタリーのように収められていることも似ている。ちょっと調>>続きを読む
最近のホン・サンス作品の中では好みの一作。いつものように食事と飲食を伴う会話劇が展開される。地雷に踏み込みそうな展開とか、三人という安定構造から一人が抜けて二人だけになったときの気まずさとか、なかなか>>続きを読む
ヴァルダ映画の常として、フィルムに写し込まれた風景や非俳優の人たちが妙に生々しくてドキュメンタリー映画のようだ。寒々とした農村の風景、田舎町の人々の顔、イランのモスクや街角。いずれも俳優たちのドラマパ>>続きを読む
第一話『人間の声』はアンナ・マニャーニの一人芝居で想定内のつもりだった。顔だけが浮かび上がる画面設計と極端なクロースアップの連続、それに負けることのないマニャーニの濃厚な演技にノックアウト。電話機はな>>続きを読む
That's entertainment! 本作はミュージカルの舞台公演をめぐるお話だ。ミュージカルの映画がミュージカルの舞台を描くところがメタ構造。ハードボイルド映画をミュージカルで描く場面も舞台と>>続きを読む
過去映画の引用は数秒から10秒程度と短いけれど、それでもアレだと気が付くものばかり。いくつか判別できないものがあって悔しい。大スターたちが数多登場する中で主役はミシェル・ピコリ。カツラを被って奇矯なム>>続きを読む