すぐに泣き出すシャルロット・ゲンズブール。いつもは苦手だが本作では見ていられる。『満月の夜』のパスカル・オジェに感応するノエ・アビタ。マニッシュなたたずまいで突発的に怒り出すエマニュエル・ベアール。女>>続きを読む
名演技とは無縁のダナ・アンドリュースだけど、その立ち姿や顔芸が活かされている。とくに、左に黙りこくったアンドリュース、右にややアウト・フォーカスのジーン・ティアニーを同時にクロースアップで捉えた長回し>>続きを読む
十代の少年・少女の淡くも濃い交情には死の影がつきまとう。少年は年上の少女に主導権を握られている。少女の振る舞いは小悪魔というよりは悪魔だけど、少年とは性交に至らない間柄を保つ。一方で少年・少女より年上>>続きを読む
狭い屋内空間の会話劇は、1930年代後半の一連のサシャ・ギトリ作品に通じるものがある。この頃のギトリ作に『新しい遺言』と『デジレ』があって、本作の題名とか登場人物の名前につながっている。ジャン=ルイ・>>続きを読む
オープニングから15分くらいは奇跡のような風景に見惚れたけど、その後のゴンドラすれ違いの一芸披露合戦にはついていけず。そもそも、ゴンドラが中間地点ですれ違うときの一瞬のために気合を入れて一芸を披露する>>続きを読む
多数の人々が集まった広場で市長が演説していると霊柩馬車が通過する。人々が脱帽して黙礼し、市長の演説は中断される。なかなか映画的だ。
ゴーリキーの原作はシンプルで、それをイタリアらしく味付けしているよう>>続きを読む
さまざまなカースタントと打撃系の格闘。こうした体を張ったアクション場面に工夫があふれる一方で、ライアン・ゴズリングとエミリー・ブラントの会話などが単調というところが極端なコントラスト。ブラントにまで打>>続きを読む
ヴィスコンティとは相性が悪くて、上手いと思うけど当方のツボを突かず。家族による下世話な愛憎劇といえばギリシャ神話かな。貧困世帯に住まう神々たち。
狭い部屋の中のカットつなぎが快調だったり、一場面だけ真正面の切り返しがあったりして、シネフィル人種はモンゴル国(正式国名)でも変わらないようだ。バンドが歌い出すのはグザビエ・ドランですかね。主人公の女>>続きを読む
ジェシー・アイゼンバーグの初監督作。意外と上手いではないか。ジュリアン・ムーアの母親とウィン・ウルフハードの息子のふるまいのイタさは観ていて居心地が悪いほどだ。ムーアが息子の代わりに同じ歳の少年に目を>>続きを読む
重要な場面で人々は馬に乗らず足で行動する。人々は戦場への往還に歩いて行軍し、ヘンリ・フォンダは援軍を求めるために走る。最初の戦闘場面で馬が登場するものの、多数の避難民が一頭立ての小さな馬車に乗り込むだ>>続きを読む
ローラ・ベティクルーはフィン・オシェイの後頭部に石を三度投げつける。この乱暴なふるまいはオシェイの求めの切実さを表している。ジェンダー認識、家庭環境、学校といった物語設定の一つ一つが、10代であるとい>>続きを読む
西部劇でも色鮮やかなアルモドバルワールド。緑のジャケットなんて西部劇で見たことがない。また、ギターを弾き語る青年の顔立ちや、ペドロ・パスカルのお尻がこれまたアルモドバルワールド。男二人がこの後、ともに>>続きを読む
兄ジョエルのハイブロウな『マクベス』に対して、弟イーサンはぐっと下品なスタイル。脚本と同様にイーサンの妻トリシア・クックとの共同監督だったらしい。説明が多くて長尺になる今日のアメリカ映画の中では、コン>>続きを読む
すごいものを観た。坂東玉三郎の舞台、インタビュー、ドラマ、それにレジェンド老人たちのパフォーマンスがレナート・ベルタの神がかり的な撮影で捉えられる。幻影のような舞台、フィルムのラチチュードに挑戦するか>>続きを読む
ロデオで落馬したミッチャムが、紙屑が舞う無人の競技場を一人で歩くオープニングの寂寥感は現役を引退するミッチャムの心情そのものだ。ミッチャムが眠たげな眼差しと頑強な肉体で、ロデオ競技への断ち切れない執着>>続きを読む
オーソン・ウェルズの舞台俳優としての堂々たる演技。さらに映画ならではのクロースアップでウェルズの〈催眠的な〉目力を堪能できる。平凡な演出の中にときおりカメラワークなどが冴えたところがあって、ウェルズが>>続きを読む
マキノ映画を見る楽しみ。同軸上の寄りと引きの間合い、アクション繋ぎのキレの良さ、俳優たちの所作に込められた感情の綾、あるいは大規模なセット空間内の俳優たちの振り付け。大河内傳次郎の大芝居もラストでは虚>>続きを読む
オープニングのハイキーな白日夢からツカミは快調だ。世間では敬意を受けていても家庭内ではクズな老教授の爺様の1日に起きるささやかな事件たちと、夢に現れる悔恨の過去、そして再生。授賞式に向かうクルマの道中>>続きを読む
フリッツ・ラング演出を堪能できる一作。殺したての死体の近くに階段の上からボールが転がってきて、そこに子供が降りてくると何ごともなかったかのように取り繕うなんていうワンショットの間合いの上手さ。また屋内>>続きを読む
レニングラード・カウボーイズ二部作の間にあるコンサート・ドキュメンタリー。旧ソ連軍服姿の100数十人を背景に従えて堂々たるライブ。カウボーイズのボーカルよりも、ロシア民謡を朗々と歌うソ連親父のテノール>>続きを読む
オープニングのタイトルや音楽が『北北西に進路を取れ』の意匠。ヒッチコックばりの演出を期待したら肩すかしを食らった。サリー・ホーキンスがリチャード3世の幻影と会話する趣向にも心は動かされず。実話に基づく>>続きを読む
豪華キャストでイタリアロケ。ジョン・ヒューストンもアマルフィ海岸を楽しみたかったのか、全体にラフな作り。屋内の照明は雑だし、カメラワークやカットつなぎにぎこちないところがある。それでも全体に漂うオフビ>>続きを読む
二人の登場人物が孤絶した暮らしの中で徐々に終末に向かうのはタル・ベーラの『ニーチェの馬』と同じ仕立てだ。『ニーチェの馬』は重苦しい屋内空間に留まり、父娘の会話はミニマムだった。それに対し本作はアンデス>>続きを読む
世界に悪意をばら撒くために暴れるよりも妄想ミュージカル世界に耽溺するジョーカー。全編を貫く居心地の悪さは狙い通りなのだろうけど、自分にはこの尺の長さが辛かったし、これだけ盛り上がらない裁判映画も初めて>>続きを読む
ゆるい犯罪者たちのゆるい強盗劇。場面の終わりにボケのセリフをかまして次の場面に転換する間合いは悪くない。ホン・チャウは『アステロイド・シティ』、『ショーイング・アップ』、『憐れみの3章』などなど出ずっ>>続きを読む
冒頭、フランスが豊かな国であることを教師が延々と説明する。それを聞く子供たちはみな貧しい。フランスの豊かさは100人の富裕な資本家たちが握っている。資本家は利潤最大化=経費削減のために容赦無くリストラ>>続きを読む
ワンナイトのバディもの。オースティン・エイブラムス演じる小僧がブリーフと靴下だけの姿で走り回り、それをブラピとクルーニーが必死に追跡する。東欧系の麻薬ギャングの結婚式でブラピとクルーニーが集団ダンスに>>続きを読む
ネイティブ・アメリカンが追跡行に参加し、メキシコ人たちがスペイン語で会話する。最後の戦いの舞台が山の斜面となるのは1950年前後の映画の定番。ロック・ハドソンは、ダグラス・サークのメロドラマでも本作の>>続きを読む
通常の会話の切り返しはもったりしていても、ビートルジュースが空間を自在に移動して会話するところは上手い。死者の国行きのソウル・トレインとクライマックスのミュージカル仕立てにはやられた。死者たちは絶命の>>続きを読む
人々の汗の映画。クロースアップの顔に滴り、着衣に滲む。暑苦しさの描写でもあるし、人間が肉体を持っていることを表してもいる。マストロヤンニの顔芸をもってしてもカミュ作品の「不条理」というテーマはあまり心>>続きを読む
マキノ作品を観る幸せ。疾風怒濤の後半だけでなく、何でも無い会話の一つ一つに至るまでカット割、構図、俳優の所作といった演出の巧緻に痺れるばかり。また、阪東妻三郎が叔父からの手紙をなかなか読まないサスペン>>続きを読む
アリダ・ヴァリ、イングリッド・バーグマン、イザ・ミランダ、アンナ・マニャーニという大女優たちが本人を演じる豪華なオムニバス映画。第一話の女優オーディション篇から第五話までいずれも楽しいけれど、なんとい>>続きを読む
ミヒャエル・ハネケやリューベン・オストルンドのように人の神経を逆撫でする展開にファンタジー風味が加わった作風。エマ・ストーンとウィレム・デフォーは前作以来ランティモス・ワールドに溶け込んで振り切った怪>>続きを読む
生者と死者が交感する世界やキャラクター造形がツボ。アクションつなぎななどの編集の滑らかさはアニメーションだからか。
生者と死者を媒介するのは、死者側の出立ちのウィノナ・ライダー。砂漠には当然のように砂虫が出現する。渡米直後のフリッツ・ラング作品数作に出演したシルヴィア・シドニーを使っているのは映画史への目配せか。