『無意識—創造の源泉—への旅』
心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した元型の一つである老賢者(old wise man—白髭の爺)こそは、この作品での大おじに投影された人格であると思われる。
だから、無意識の領域において、その後結実することになる全ての創造は既に完了していた。
老賢者(=自分)による「悪意の無い」世界への甘美なるいざないも現実の使命を帯びた少年にとっては虚ろに響くだけである。
美しいものをつくるということ。
それは「ファウスト」における悪魔メフィストフェレス(劇中ではカプローニ)と契約を結ぶようなものだと、「風立ちぬ」で作家は自身の苦悩を懺悔して見せた。
大いなる苦悩もこの世に蠢くおぞましい悪意をもその人生に引き受けながら駿少年の創造はこれからも続く。
この物語は「風立ちぬ」の前日譚でもあり、その後も生涯に渡って続く自己矛盾という呪いを背負いながら宿命の中に身を投じてゆく少年の旅の出発点を描く。
若気の至りという勿れ。混沌の洪水の中に垣間見えるのはかつての悲愴な覚悟ではなく、清々しく爽やかな決意の表明である。
自分は斯様に生きるのだ。生きねば。
君たちはどう生きるか。
—俺たち日本人は今こそ勇気を持たねば!