たかはた

かしましめしのたかはたのレビュー・感想・評価

かしましめし(2023年製作のドラマ)
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すっごいいろいろ惜しい。
セクシュアリティを扱うなら全編ちゃんとして。メンタルヘルス扱うなら全編ちゃんとして。美術を扱うなら全編ちゃんとして!言及しただけでは「描いた」とは言えないの!これは日本の連ドラ全般に言いたいけど、物語る体力をつけて!(自分にも言ってる)

ナカムラとたぐっちゃんの関係性を始めとする「普遍的な人間ドラマ」を描くぞー!って時は妙に解像度が高いのだけど、それだけが「妙に」浮いてしまうのは取り上げてる上記のモチーフにまでその想像力が及び切っていないから。
セクシュアリティにせよメンタルヘルスにせよライフワークにせよ、何年も背負っている属性はもっとその人の生き方の端々に影響を及ぼしてくるはずなのに、「属性があります/悩みがあります」みたいなドレッシング状の分離が生じていた。
属性と悩みとは完全には分けられないという個別化を怠ると、「◯◯(属性)、でも同じ人間だよね♩」っていう、現状を変える力もなければ個別の問題を隠して解決から遠ざけすらする有害な普遍化が生じる。よく振ってからお使いくださいよ!

その中で唯一?よく振ってお使いになれたはずのシーンがあった。英治が榮太郎に告白するシーン。けどマジでマジで惜しすぎた。相手が永遠に残したいくらい美しく感じられるのはとてもわかるのだけど、致命的だったのは何が何でも選ぶべきだったたった一つの選択肢を易々と取り逃したこと。つまり榮太郎は英治に返答すべきだった。そのミスは「ヘテロセクシュアルの榮太郎が同性愛を無効化する」、今ある傾きをさらに傾ける、「切なさ」などには回収し得ない最もグロテスクな構図をわざわざ生み出してしまった。ミスは避けることができたどころか、選択によっては日本のクィアドラマ史に残る名シーンにすることもできたにも関わらず。
何も答えずヘラヘラする前にさ、榮太郎は、言語化できない、言葉が心に押し寄せて、目の前の人間から生じているダイナミズムを写真家として撮らずにはいられない。このシーンは榮太郎が視る英治で持つねん。そこで投げかけられる榮太郎の視線は、直線的なまなざしを脱して、強制的異性愛を無効化して、我々はどこにでも行けたのに!!
ドラマの長回しとしてはおっ?と思ったのに、わかってない!テレビドラマは、言葉で説明したくなるのをもう少し我慢してみたらどうか。それくらいで視聴者は振り落とされないですよ。
たかはた

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