MotokiA

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのMotokiAのレビュー・感想・評価

3.0
『Everything Everywhere All at Once』 2023/04/15


最新版カンフーアクションSF映画。
映像的に面白かった。

■全体的な印象
役者さんが魅力的だった。
いわゆる美男美女ではない普通のおじさんおばさん女の子が中心なのもよかった。
人種や性的指向に加えてルッキズム観点でのポリコレ意識も設定や配役から感じた。
夫役の俳優さんがカンフー始めたときはジャッキーチェンに見えて仕方なかった。

映像的にはカラフルかつ緩急の激しさで終始観客を引付させる高刺激な構成だった。
引き出しがいっぱいあってすごい。
エヴリンがジャンプによってマルチバースの自分を知覚するときの表現は、奇しくもここ半年くらいで異常な進化を見せているAIが生成するイラストやアニメーションを彷彿させるものだったのも興味深い。
中盤あたり手描きのショットなど異質な情景を次々に挟み込む表現はTV版エヴァの終盤の展開も思い出された。

■物語
ストーリーとしては普通という印象だった。
マーベル映画の影響かマルチバースをテーマにした物語はよく目にするようになったが、怒涛の説明セリフによる日常→マルチバース世界観への導入はなかなか強引で、観客のハリウッド的マルチバースリテラシー的なものに頼りすぎなのではないかと感じた。

ベーグルの穴は無意味や虚無、否定の象徴だったのかな。
娘のジョイ/ジョブ・トゥパキはあらゆる可能性を無に帰していく。
一方でエヴリンはあらゆる可能性と共生し、肯定していく。
というように世界の受け入れかたが対象的に描かれていた。
まあどっちがいいとも言えん感じがした。

誰もが一度は考えたことがあるであろう「ありえたかもしれない自分」「ありえたかもしれない人生」の可能性に登場人物の心が揺さぶられる場面は共感しやすいポイントだったと思う。
いまここにいる自分だけではない、あらゆる可能性の自分が別の人生を生きていることの興味深さや羨望や後悔。そういった全て含めて自分であるというのは希望ともとれる表現だったかもしれない。

「今の自分自身にも多くの可能性が内包されている」みたいなものではなかったのは、そういうメッセージは10代かせいぜい20代前半までの若い人向けのものだからかもしれない…。年月を経て分岐が多くなればなるほど今ここにいる自分でのジャンプは困難になるから。

■本作のマルチバース世界観
主人公が武から思索をへてあらゆるものを受け入れ肯定する境地へと至るのは
東洋思想の影響が色濃く出ている。

ただ、自身が石として存在する世界を出してきたのは蛇足に思えた。
要は生物が生まれえなかった無生物の世界なのに思索やら人格が存在してることが矛盾・破綻に思える。そこは人間の知覚が及ばない世界なのではないか。
生物が生まれなかったと言いながら、「そういった世界での自分」は存在している、というのが人間中心主義的な考え方のように思えた。物語を展開していく中で痛恨の違和感のほころびになりうる描写に思えた。

この物語でのマルチバースというのが、
本当の意味でありとあらゆる可能性が存在するという世界観であるならば、彼ら自身が存在しなかったあらゆる可能性、という宇宙も存在しなければならないはず。
「"別の自分"が存在しているマルチバース」より遥かに巨大な「あらゆる全てのマルチバース」があるということに思い至る。
つまり、「人間存在」を基準に考えると、
あの人やこの人や私がいたりいなかったりする無数の宇宙。それどころか「あの人でありこの人であり私である誰か」が存在する無数の宇宙。そして「誰か」と認定できるものが存在しない無数の宇宙。
といったものがマルチバースバースの全体像に近いのではないか…。
つまり「自分」とはなにかという哲学の究極命題が浮上してきてしまう。

そう考えると作中で語られている世界の存亡云々も「あらゆる全ての巨大なマルチバース」の片隅で起きている些事なのではないかと思ってしまった。
…というようなことで観客を物語にフォーカスさせることの障害になってしまっているように思えた。

■まとまらないまとめ
SF・エンタメでのマルチバース世界観の歴史が気になってきた。2001年宇宙の旅もそんな要素あったかな…忘れた。
個人的に最初に触れたのは、ドラえもんの魔界大冒険(だったかな?)の"パラレルワールド"という概念かな?

あと先週観た『Mondays』のようなループモノも、「この世界の別の可能性」という意味で結構マルチバース的なのかもしれない、ということに気づいた。

この設定かなり歴史があって語り方や表現方法が成熟している分野だと思う。
で、最近のマーベル映画や本作などハリウッド作品について感じるのは、世界観設定をサイエンスを援用してロジカルに展開しようという努力。

そのあたりリアリティを生んで功を奏してる感がある一方で、説明過多でSF的世界観のスケールがちょっと小さいものになっている感もある。
世界の存亡や宇宙の命運が主人公たちの行動にかかっている「世界系」の話なのもその一因かも。

良し悪しではないがこのあたり、
自然が神からの人間へのギフトであり制御可能なものという西洋的世界観と、
自然は超越的で制御不能であり人間もその部分であるという東洋的世界観
の違いがあるのかもしれない。(西洋/東洋かなり雑だけど大枠としてとらえるために便宜的に)
それは混沌とした世界に向き合ったときに、それをどう捉えるか、どう関わるか、どう対処していくかに関係してくる。
物語の締めくくりとして日常にもどってきた主人公の成長や達観も、その中身は全く異なっている。

世界の真理に近づき外から世界を見ようとする者のそれか、
等身大の自分が変化し世界の見え方が変わった者のそれか、
といったところだろうか…。

全く映画の感想ではなくなってきたがこんな感じのことが頭に浮かんだ体験だった。
MotokiA

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