たなか

いくえにも。のたなかのネタバレレビュー・内容・結末

いくえにも。(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「いくえにも」を辞書で引くと「繰り返し。同じことを何度も行う。何度もかさねて。願ったり詫びたりする気持ちを強調する語。多くのものが重なっていること」とある。映画もこれをベースに物語が展開していると思われる。

冒頭は線路脇の電話ボックスに男の子が入り、女の子がむかえに来るシーンからはじまる。何気ない光景だが小さな女の子が年のわりに落ち着いた服装であることと、年上の男の子をむかえに来るという微妙な違和感がある。「明日は礼拝よ。はやくかえろう」と言いながら来た道を戻ることからなんらかの宗教を深く信仰している人たちだということがわかる。そして電話ボックスより右側に宗教団体(受け入れられない現実)、左側に願望の家族(普通だけど夢の中のように現実味に欠ける家族)があることがわかる。電話ボックスは、シーンによって消えることから、昔はそこにあり修平の幻覚が見せていると考えられる。また象徴的であることから電話ボックスは修平にとって、家族とつながれる希望の場所だったのではないだろうか。


幼い頃の修平は父と母とともに暮らしていたが、父が亡くなり、母が宗教に入信してから人生が一変した。そしてある日、日曜礼拝をおこなう宗教団体と共に暮らすことになり、母は姿を消した。宗教団体での生活になじめず、家族が恋しかった修平は電話をすればむかえに来てくれると信じ電話ボックスへ助けを求めに行くが団体の職員に連れ戻される日々を送っていた。そしてある日、母と電話がつながる。「もう家族じゃないから」同じ人とは思えないほど変わってしまった母からの一言にショックを受けた修平は心を病んでしまう。そして願いをこめ電話ボックスのガラスに「本物の家族になりませんか」と書き記し、孤独と寂しさ、悲しさから逃げるように、過去の記憶にふたをした。

ふと気づくと修平には家族がいた。突然だったが、考えてみればそれがあたり前だったような感じがして、まるでリアルな夢を見ているかのようだった。妹、母、父もまたそれぞれに普通の家族をもつことを夢見てそこにいた。

足にあざがあり、教科書ではなく文庫本を読んでいる妹。現実の世界では、家庭内で拘束され、暴力も振るわれ、学校に行けずにいた。彼女の願いは、普通の家族がいることと、制服を着て今時の音楽を聴く普通の女子高生になることだった。食卓で質問をされても「普通」と答えたのは、本当は学校へ行っていなかったこともあるが、普通が一番望んでいたものであり、そう言いたかったからだ。

父はストレスがかかると、ベランダで煙草を吸いながら現実の妻と娘の写真をこっそり出して眺め、ため息をつく。不器用な父は妻と娘とうまくコミュニケーションをとることができず、酒、煙草、浮気のせいで家族と疎遠になっていた。夏美に「普通」「うざっ」と言われても嬉しそうだったり、和美にあえてしょう油を取ってもらったのは、そういう普通のコミュニケーションを望んでいたからだった。

母は過去に流産してしまい、夫も亡くしてしまった。広い一軒家にひとりで暮らしていた母の夢は、家族で食卓をかこむことだった。修平と夏美がしっかり食べているか確認するのは、子どもの健康をなにより願っていたからで、修平がけがした時の手当はこの世にいない我が子を想ってのことだった。

四人は普通だけど夢のようにどこか現実味に欠ける理想の生活を毎週土曜日に繰り返した。あたりさわりのない理想の会話ができあがり、いつしかそれを繰り返すようになった。目も向けたくない現実から逃避することができるしあわせな時間が土曜の夜だった。しかしそこに、隣に越してきたという夫婦が突然現れ、家族の平穏を乱す。

派手で胸元があいた服装の妻と裏の社会に手を染めていそうな夫が犬を連れて挨拶にくる。すると教え込まれたかのように犬が家の中へ逃げ、妻も後を追って家にあがりこむ。そうやって家庭の状況をさぐり宗教の勧誘をするのが手口のようだ。彼女の指摘により家族は他人の集まりであることがバレそうになり動揺する。修平は過去の記憶にふたをしているので、疑うこともなかったが、教会に誘われることで、忌まわしい日々の記憶が戻り、混乱して嘔吐してしまう。そして、記憶が戻ると共に願望の世界の理想の家族のことは認識できなくなっていた。

すっかり日も落ちた暗がりの中を修平は夢と現実をさまようように混乱しながら歩き、線路沿いの道へ戻ってきた。するとそこに電話ボックスの中でお母さんを呼ぶ男の子がいた。行きに見た光景はうろ覚えだったから修平自身だったとは気づかなかったが、この時はもっと鮮明に見えた。そして記憶をたぐるように電話ボックスの中へ入り、ガラスに書かれた文字に目が行くと、あの時のショックが再び修平の胸をつらぬいた。

気づくと、通り過ぎる電車の光を恍惚と眺めている修平がいた。
そして、土曜日が来て修平は家族が待つ家へと向かった。
それが修平が選んだ家族だった。


この物語では、夢と現実と幻覚が同じ次元にある。家族は土曜日以外は何をしているのか考えたのだが、もしかするとそこには土曜日しか存在しないのかもしれない。理想の普通の家族だけど、どこか辛い現実を引きずっていて、お互いを想い合っているようで別の人のことを想っている。血が繋がっている家族、理想の家族、子どものいない夫婦、年が離れた夫婦、形はどうであれ家族の形はそれぞれで、それは自分で決めればいいことなのだと思う。

タイトルの「いくえにも。」は、20分の間に散りばめられている。冒頭の電話ボックスと男の子と飛行機の音、むかえにくる女の子と女の人の服装とセリフ、家族の会話、土曜日、からあげ、壁面のお皿の絵と置物と食卓の皿の数々。見るたびにいくえにも新しい見方ができて、水面の波紋のようにいくえにも物語がひろがっていく。

あ。ももちゃんも、「も」を繰り返した名前だ。
[2022.02.13追記]

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初監督でこの繊細さは素晴らしい。
見せるだけでなく、その後も頭の中でいくえにも物語が展開するところが美術作品のよう。そして、何度見てもまた新しい物語が見えてくるよう緻密に計算された上で書き上げられた脚本、カット割り、俳優さんたちの表情が20分に凝縮されている。[2022.02.09]
たなか

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