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ケイコ 目を澄ませてのatmyownpaceのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.0

スコア意味なしメモ用

●概要
聴覚障害をもつ孤独で不器用な女性が、ボクシングを通して本当の意味で自分と他人に向き合うことを知り、前に進む話。

●感想
久々に丁寧で上質な映画体験をしたという印象が強く、なんだか写真集をゆっくり眺めているような感覚になった。

タイトルが秀逸で原題はプロボクサー小笠原恵子の自伝「負けないで!」未読。この映画には「負けないで」よりこっちが合っている、本質をついた無駄のないタイトル。
・ケイコ=稽古(先生について繰り返しよく習うこと)、ボクシングを通した擬似親子の関係性、彼女の人間性
・目を澄ませて=ろう者という特徴から雑音なく集中して自分と他人に向き合う姿

ケイコはいわゆる「ろう者」で耳が聞こえない。そのかわりに目がいい、ただ見るのではなく観察するようにみる。人間の五感はよく出来ていて、どこかが欠けているとそれを補うように別のどこかが発達する。ケイコは目がいい。

全編通してケイコが、なぜボクシングを始めたのかという明確な理由はなかったように思うが、たぶん単調な毎日のなかで積み重なる悶々としたものを吐き出したかったのだろう。そして、おそらく母子家庭で父親はいない。それは学生時代に荒れていた過去があったり、同じろう者の友人はいるけれど「話したって人は一人」と弟を突き放す描写から、どこか愛情不足で育った背景がうかがえる。

印象に残る関係性でいうと、親子のような会長とケイコの姿が微笑ましかった。おそらく子供のいない会長と、父親のいないケイコ。互いに適切な距離を保ちながら、でも確実に信頼関係が築かれている。河原で会長がケイコに帽子を貸すシーンは、まるで父娘のようでとても優しい時間が流れている。また、時々はさまれるコミカルなシーンやその空気はどこか北野映画を彷彿させる、たぶん監督は北野作品が好きなのだろう。

そんな中、自分と向き合い打ち込めるボクシングと信頼できる他人(会長)がいる、ケイコにとって安全基地のような居場所であるボクシングジムが閉鎖になる。それはケイコにとって「信じられない、受け入れ難い、許せない」と日記に綴るほど、悲しみと喪失感を持たせるものだった。

このシーンは個人的にとても共感できた。自分も幼少時に習字を習っていたが途中で親に無理やり教室を変えられて、喪失感からやる気を失くし、そのあと習字もすぐに辞めたことを思い出した。
理由は、途中で隣町に引越したことから場所が遠くなり、校区外で通うのが危ないということだった。最初は下手くそだった習字も少しずつ上達し小学校で表彰されるまでになったが、それよりもその習字教室の先生に会えなくなるのが嫌だった。先生は田舎のおばちゃんにしては小綺麗で品があり、とても厳しくとても優しかった。何より努力したことを素直に褒めてくれる自分の周りにはいない貴重な大人だった。いま思うと、両親は共働きで忙しく休みの日も親戚に預けられ、ほとんど親に甘えた記憶がない幼少期の自分は、習字の先生に母親を重ねていたのかもしれない。

また、会長と離れたあともボクシングを続けるか迷うケイコはいろいろと葛藤する。辞める決心をし会長に手紙を渡そうとジムを覗いた時、目を悪くした会長がテレビにかじりついてケイコの試合映像を観ながら応援していた。その姿に居た堪れなくなり、その場から逃げ出すシーンが彼女の人間性をよく表していた。不器用で、率直で、素直で、ひたむきな何とも人間らしい応援したくなる人。


ケイコはボクシングを通して、自分を見つめ直す。そして、少しずつ変化し成長していく。ボクシングは戦う気持ちが無くなったらできない、相手にも失礼で危ないこと。ボクシングは相手と向き合わなくちゃいけない、嘘をついちゃいけない。自分の気持ちをコントロールし恐怖に立ち向かい、目の前に集中すること。それは、ホテル清掃の仕事中、以前は見えていなかった(見ようともしていなかった)後輩の指導をする姿からもうかがえる。

また、河原で佇んでいたケイコに、前回の対戦相手が礼儀正しく挨拶をしてくる。試合中、足を踏まれてダウンを取られたことから悪い印象だった相手が、実は良い人だった。ケイコは憎しみを抱いていた自分を反省し、目を澄まして相手と向き合うことが大切だと気付かされる。会長も病院でケイコの試合をみて弱った自分を鼓舞する。「よしっ」と力強く車椅子を漕ぎ出すショット、ズームアウトする背中から会長の決意を感じる。

エンドロールは環境音のみで、荒川の引きの画が印象的だった。そこにはケイコが生きている街、存在してきた時間が映っていた。ラストカット、荒川を船が静かに進む。縄跳びの音だけが淡々と鳴り響く。負けたことをきっかけに、絡みついていた悩みから解放されたケイコの挑戦がまた始まる。

最後に、劇中唯一の音楽が鳴るシーン、会長の奥さんがケイコの日記(本音)を愛らしく読みあげるところから、HIMI「Hold on to your life」が流れる。この監督、本当にセンスがいい。ハミングのような弾き語りなのも、日記を読み上げるシーンに絶妙な音量で流れているのも、そこに流れる絵日記のような映像も見事にハマっている。過去作の「ワイルドツアー」本当に観に行けばよかったと激しく後悔。三宅監督の次回作が早く観たい。