白眉ちゃん

NOPE/ノープの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

NOPE/ノープ(2022年製作の映画)
4.0
 二回目を観てから書こうと思っていたが上映終了してしまっていた。配信開始時に読み返す用に書き記しておく。


 過去作『ゲット・アウト』('17)や『アス』('19)同様に、システミック ・レイシズム(組織的な人種差別)についての映画だ。雲に擬態し、上空より人や物を吸い上げる未確認飛行物体(UFO)もとい、未確認空中現象(UAP)は端的に”搾取する存在”と言い換えられるだろう。そんな超常的な存在に理不尽に脅かされるホラー映画ではあるが、脚本兼製作を務めた『キャンディマン』('20)でもホラー映画の導入からダークヒーローものへと着地してみせたように今作にもシームレスにジャンルを渡っていく節がある。冒頭のホームコメディドラマ「ゴーディ 家に帰る」で起こった惨劇は観客にホラー映画を見る心構えをさせるが、つづく牧場で起こった不可解な死傷事故と共に意識が上空へと向けられると次第にSFスリラーの世界へと迷い込まされている。スピルバーグやシャマランのSF映画を思い起こさせるが、ドラマ部分には西部劇の文脈が組み込まれていたり、かと思えば日本のアニメ文化へのオマージュもあったりと盛り沢山なエンタメ作品に仕上がっていて、このスペクタクル映画の真価は映画館の大画面と音響でもって堪能されるべきだろう。

 主人公となる兄妹は、1877年にエドワード・マイブリッジの連続写真『動く馬』で騎乗していた黒人騎手の末裔であり、劇中の言葉で表すなら映画界のロイヤルファミリーとなる筈だった一族である。しかし、歴史の中で黒人の存在は不当に抹消され、功績は白人によって簒奪されてきた。その被害者である彼らには歴史的な功名も報奨もなく萎びた牧場と馬だけが遺産としてあるばかりである。その史実的な差別が前提としてあるが故に、妹はGジャン(UFO)をカメラに撮ること(shot)に固執し、マルチな活動と現代のネット文化を介して地位や名誉を築こうとする。対して兄は馬に跨り荒野を駆る。純然と一族の跡を継ぎ、本業である牧場家業を再建することで名誉を取り戻そうとする。奪われた名誉を取り戻すべく『動く馬』を再演出し、失われた黒人の映画史を紡ぎ出すこと。それは黒人映画監督として史上最大のヒットメイカーとなったジョーダン・ピールが、黒人の観客以外にも作品を観られる監督だからこそ訴え出るべきテーマを今作のモチーフに投射しているように思える。

 個人的にはGジャンとの対決よりも登場人物の相関関係が浮かび上がらせる映画史のやり直しをもっと観たかった気持ちがある。それ故にジュープ(スティーブン・ユァン)の物語が実に面白いと感じる。ハリウッドの映画史の中で黒人は元よりアジア人の活躍の場も限定的であったことは想像に難くない。ジュープが子役時代の栄光で築いたテーマパーク「ジュピター・パーク」は確かに西部劇のマネごとに過ぎないかもしれない。だがアジア人がハリウッド映画史に存在していた証左であり、彼が勝ちとった小さな西部でもある。だが「ゴーディ 家に帰る」の出演は彼に功罪を与えた。垂れ下がったテーブルクロスによって目を見ることがなかった偶然でゴーディの惨劇を生き延びた幼い日の彼は、「最悪の奇跡」(最悪の状況下で起こった奇跡的な出来事)に人生を魅了されてしまった。暗黙の敵対行動を知らないままに、そして支配者階級と心を通わせられると致命的な勘違いをしたままに。

 自らの人生における最大の奇跡体験をショーにすべく、Gジャンを呼び寄せるジュープ。供物を捧げ、恭しく進行する様は神事のごとく。しかし禁忌を破ったこの哀れな君主は、愛する妻や従順な臣下、観客という臣民たちと共に滅ぼされる。身の程を知らない不届き者は不敬と見做され罰せられる神話的なエピソードだ。ジュープの物語は兄妹の前座という脚本上の意味もあるが、白人の作る歴史の中でのあり方の反例として解釈することも可能である。ならば、Gジャンを打ち破る黒人の兄妹が辿り着く答え、監督が訴えるテーマはなんなのだろうか?


 それを読みとる上で大切なのがキング牧師の有名な演説「I Have a Dream (私には夢がある)」と「I've Been to the Mountaintop (私は山頂に達した)」だろう。劇中でこの格言をなぞるの著名な撮影監督のホルスト。白色人種である彼は支配階級に定義されるわけだが、自宅でも食物連鎖のドキュメンタリーを鑑賞しているなど、自然界の弱肉強食の摂理に執心しており、また社会の階層制度にも自覚的であると言える。彼は兄妹からGジャンの撮影を依頼された際、「お前たちは山頂に達するという叶わぬ夢を持っている」(意訳)と言い放ち、エメラルドから顰蹙を買っている。彼の言葉を演説の内容と共に翻訳すれば「お前たちの望む、すべての人間は平等に作られていて肌の色ではなく人格そのものによって評価される、そんな理想的な社会が来ることはない」というわけである。キング牧師が到達し、見た山の向こうにある約束の地の景色。それを信じて人種差別と闘ってきたアフリカ系アメリカ人の人権運動の歴史を全否定するかのような言葉である。そんなホルストは絶対的な権力に魅了されたのか、”真実を撮る”と語りGジャンに飲み込まれていく。余談だが、ギョーム・ブラック監督の傑作『宝島』('18)は幼い黒人の兄弟が手を取り合いながら丘を登り、丘の向こうの景色を眺める後ろ姿で終わる。観客である私たちにはその景色は開示されない。キング牧師の言葉を以ってして、人種差別のない社会に私たちはまだまだ到達できていないのだと映画は風刺する。(レビュー済み)

 ジュープと比較して考えてみた時に、兄妹は彼のような小さな国さえ持っていない。そんな兄妹がGジャンを誘き出す為に引っ張ってきたスカイダンサー。彼ら(あるいは彼女ら)は踊っているのか、搾取されまいと根を張り耐えているのか?楽しんでいるのか、苦しんでいるのか?このスカイダンサーの使い方が絶妙であり、画的にもユニークで大好きだ。最後の決斗はGジャンの捕食シーンを写真に収め、見事に撃退した兄妹たちの勝利に終わる。だがマスコミがまたしても彼らの功績を掠め取ろうとしている。しかしながら、ここで兄妹の大切なエピソードを思い出して欲しい。エメラルドが小さかった頃、誕生日に貰うはずの馬を貰えなかった話は彼女が初めて搾取を経験したエピソードである。そしてその時、悲しむ彼女に目を合わせてくれなかった父親と彼女を見つめ返していた兄の存在。”目を合わせる”という行為は本来は反目や不敬な行動ではないはずだ。対等な立場にある者同士なら悲しみに寄り添うこともできるはずだ。Gジャンとの最終戦に臨む前に兄は真っ直ぐとカメラを見据えて再び妹に「見ている」とジェスチャーを送る。そのカメラの先に居る”対等であるはずの私たち”に人種差別と闘う自らの存在の証明と連帯を要請するようにして。
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