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劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCEのるのレビュー・感想・評価

4.7
本作は3期のちょうど前の位置付け、その繋ぎだが、一本の映画として捉えた時でも完成度が高いと思った。

原題は「人間の統治は人(法)よって行われるべきか、AIによって行われるべきか」

朱率いる法務省サイドは法の立場を
砺波や世論はAI(シビュラ)の立場をとっており、明確な二元論での議論が展開されていた。

世論の言い分は、「現代において犯罪定義裁定を行なっているのはシビュラであり、秩序維持に大きく寄与している。実際に犯罪件数も限りなく0に近く、人々が健やかに生きる環境構築をシビュラによってもたらされているのが明白だから」というもの。作中での官僚はこの世論の代弁者という形で描かれている。

砺波の言い分は、「人が人を支配し続ける限り、その利己主義と非合理性により残酷な現状が繰り返される。人より合理的で、全体奉仕的に活動することを厭わないAIは人よりも上位の存在であり、神にも値する。そのためAIによる完全統治こそが人々への完全な幸福をもたらすこととなる。」というもの。

砺波は外務省の海外部隊として、海外の治安保全を目的に活動をしていた。その実態が、私益を肥やす官僚のための地域略奪経済の維持のため、海外において破壊活動を国家の意思のもと行うというもの。シビュラによる完全統治が行われていた日本を出て、海外の悲惨な現状、自身も同じく人により私益を肥やすための駒として扱われている現状を直視することになって、結果として官僚への離反、国交相開発のAI「ジェネラル」擁立し、AIによる統治国家の樹立を目論むに至っている。

朱側の言い分は、もちろん1期2期3期を追ってきた視聴者ならわかると思うが、「完全性を謳い、人々の完全の統治を謳ってきたシビュラには大きな欠陥があり、それが露見していない」という点にある。
そのため法による統治体系を失った場合、シビュラの適応できないイレギュラーの発生に対処ができないため、反対の立場をとっている。ただシビュラの欠陥を世論に伝えることは、その完全性により人々の統治を認められてきたシビュラという存在への否定となり、日本がシビュラによって唯一法治国家として安定して存在できている現状を崩壊させかねないため、避けている。

両者言い分があり、どちらも共感できる内容となっていた。映画の結末としては、シビュラによる完全統治、それに伴う各種法の完全撤廃が世論の流れとして決定的になっている中、今まで避けてきたシビュラシステムの欠陥の周知を、朱が自身を犠牲に行うというもの。これにより、シビュラ統治下では、人を殺害しても裁かれない人間が存在してしまうという絶対的矛盾を世論に突きつけるにいたった。

このシーンは狡噛慎也がシビュラという法を逸脱し槙島を殺害することを、必死に止めていた朱が、結局のところ法の存在の意味証明のため(人々の安全な社会の維持という意味合いでは狡噛慎也と行動原理は同じ)狡噛慎也と同じ結末を歩むにいたった点に皮肉を感じてしまった。また朱が隔離された後に泣いているシーンは、「人が裁かれることと、罪を認め、背負い、償うということは別に存在している。」というシビュラへのアンチテーゼ的なメッセージにように思えたし、「朱の望む未来は、自身で考え行動し、その行動に責任を自身で背負う、というようなシビュラとは相反する世界である」ということを明白に表していると思った。加えて、一期で狡噛慎也に背負わせてしまった罪の大きさを身をもって自覚しているシーンとしても捉えられた。この映画の中で最も印象的なシーンだと思う。

また作中を通して、「免罪体質」「複数集合体」「薬剤による違法ケア」に該当しない朱シビュラへのイレギュラーが新しく明確に定義づけられたのも印象的だと思う。それは「主観と客観の分離」というもの。作中でジェネラル率いる砺波のピースブレイカーはディバイダーにより、主観と客観を分離することでシビュラによる執行を避けていた。ディバイダーのカラクリは、人の思考を、ジェネラルと云うAIによる思考を挿げ替えるというもの。ジェネラルの行動原理は、AIとして人々に最大幸福をもたらすためであり、その行動原理に基づく残虐な行動は、主目的がその残虐行為そのものに泣く、シビュラは世にとって不利益、世の危険思想として裁定ができなかったようだ。(AIだから捌けなかったと云う認識もあったが、2期でシビュラシステムに内包されている個人への裁定はできることが判明しているため、AIであっても危険分子や世への不利益として判断された場合は裁定されると考える。そのためのこの認識は今回は否定する。)

つまり、真に心から人々のための利益になると考え、行動した場合、シビュラによって社会にとっての危険とは裁定されないと云うこと(おそらくシビュラとしても社会に対する必要性を自覚している必要がある?ないかも)。朱の最後の射殺も同じ理由で適切な裁定がされていなかったと考える。ただ、シビュラの裁定は「社会に対する危険」という一軸で判定されているが、ここには「出来事そのものの危険性」と「その出来事によって、精神的不衛生となることにより孕む社会に対する危険性」の少なくとも2要素が含まれている。なので誰にでも可能なのではなく、朱のような精神的タフさ、殺人という行為を「主観的な罪悪感」よりも「社会としての必要性」として認識するような精神構造が必要なのかと感じる。(ただ罪悪感を感じていない路線は映画の最後の描写的にありえない。今までのシリーズの話から汲み取るに、朱には「主観としての感情」と「客観としての感情」を区別する能力が存在している。ex一期17話 シビュラのシステムの醜悪さ、不合理性を認識しつつ主観で嫌悪感を表すが、同時にシビュラの存在により成り立っている社会がおり、有用性も認めている。)

ここから自分の意見
映画の主題である「統治はAIによって行われるべきか、人間によって行われるべきか
自分の意見は砺波と同じく「AIによって行われるべき」だ。ただし割合は決めるべきである。

砺波がAIに信奉し、AIのいいなりとして動いてきた過去、それらには理由があった。それは人間の利己性によって害を被ってきた者たちを幾度となく目の当たりにしてきたからだ。もちろん砺波自身もその1人である。人間が人間を統治する以上、そこに真の公平性はなく、利己性によって迫害をされる人々が生まれる。またそれぞれが利己性を主張することにより争いが生まれる原因となる。それなら真の平等の天秤を抱えたAIに統治を任せろというわけだ。

ここで問題となっている人間の利己性とは現実にも問題のタネにもなっていると思う。たとえば核廃絶。各国が推進しているが結局のところ国防上の理由や他国に対する優位の確立のため廃絶が進まない。また環境問題、自国の経済、生産体制の維持のため、資本主義環境下での優位性の確立のため環境配慮が進まない。大量消費社会という言葉のように消費者のスタンスが昔より傲慢で、何でもかんでも無駄に消費するように表現するのはよく言ったもので、結局のところ自国の経済の裕福のために、過剰に生産し、あらゆる需要に対応しておく必要がある国と会社の利己性をぼかしているだけである。人間の利己性の顕現はこのような大きな問題でなくとも存在する。イジメなどその最たる例である。人間の利己性はあらゆる争いのタネであり、この利己性があるまま統治をすれば誰かが損をする世界ができるに決まっている。AIに統治をさせたから格差が是正されるというわけではないが、そもそもの天秤に明確な不平等さが現れている状況に問題があると考える。人間の利己性というアイデンティティを否定するわけではないが、「平等な統治」という目標のためにはその利己性は無駄のものとして排斥をすべきだと思う。

ただ作中において、真の平等を謳うシビュラには結局のところイレギュラーに対しては適切な裁定が下せないという欠陥がある。現実的に秩序を維持するためにAIの運用が始まったとしても、同じように裁定がうまく機能しないイレギュラーというものは存在することが予想できる。
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