正直、非常に身につまされる映画であった。
そもそも人によって性的指向はそれぞれである。
映画の中での登場人物たちはいわゆる水フェチな人々であって、それは別に他人に迷惑をかけるわけでない。
しかし、その指向は周りに理解されないものである。確かに、何もかもが多様性で認められるわけにはいかない。
別にこの映画の全てを多様性と認める必要はないと思う。
でも、私たちは稲垣吾郎が演じていた「普通」の正義を振りかざす人間にならないようにしなければならない。
そもそも、普通などただの規範で、他の人に迷惑をかけなければそれは全て「普通」なのではないかと思う。