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ウィッシュの電波のレビュー・感想・評価

ウィッシュ(2023年製作の映画)
4.9
グランドホテル形式という映画のスタイルがあります。限られた場所での複数視点の群集劇の事らしいです。「願い」を叶える場所での様々な想いの群衆がクリスマスを前にしてパーティーを繰り広げる様に私なりに豪奢な語り口で書いていこうと思っています。

冒頭からパーティーから現実に引き戻される様で心苦しいのですが、今、私は「願い」という灯火では見渡せない不透明な予兆に満ちた世界を生きています。

先程、考え無しに吐いた言葉が歪曲され、報道されました。

なるべく弱音は吐かない主義なのですが、「願い」を叶える為に邁進する道のりで、背負っている十字架の重さにペシミスティックにならざるを得ない瞬間もあります。

霧の中、視界に頼らず勘で突き進んでいるというのが私の世界観です。

楽観主義、オプティミズムという羅針盤を頼りに進む船はそこに悲観主義、ペシミズムを与えんとするヴィランによって簡単に進路を妨げられます。
 
もっと有り様に表現すれば、他所でも言いました通り、霧の中で勘に頼ってボールを投げる様な体をとらざるを得ない状態です。

着眼大局、着手小局とは言います。ここ最近、大局的には人生の起伏が激しい訳ですが、小局的にはメンタルの起伏がそれ以上に激しい訳です。殊、霧に関しては謎との事です。オプティミスティックに26年間訴えていますが、明快な答えは得ていません。これも私の「願い」と言えます。

霧の中という宿命から逃れられない以上、約束の日まで同じ「轍」は繰り返される事になると思うのです。

霧が在る以上「轍」はなかなか見えません。いくらオプティミスティックな態度で生きようと、「願い」を叶える道のりで「轍」に足を取られる事は避けられないのです。宿命です。



宿命について考えるいとまにコーヒーショップに寄りたい気分になりました。
暁光なのでしょうか、これも宿命だったのでしょうか、鈴木おさむさんと神谷浩史さんと佐野玲於さんがいらっしゃる所を、いい意味での「轍」を拝見する機会を得たのです。
そこでしか見られない絵本、「君だってサンタクロースかもしれない」のお話を耳にし、拝見しました。

私はどういう訳か、目の周りの筋肉が滞ります。笑顔が上手く作れなくなります。それに比例して心がもうろうとして立ち行かなくなるのです。理由は誰にも解りません。26年訴えているのですが、今生では解らない様です。

そんな宿命にオプティミズムを得られる様な物語でした。画用紙の大きく笑っている口を切り取る「スマイルマウス」。
唯一無二の「ホスピタリティ」を感じました。
感謝の念しかありません。
「パパとママが『本当に』久しぶりに笑ったんだ」このフレーズを頂いた所まで含めての「ホスピタリティ」でした。
  

「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」
という映画を拝見しました。

本当の意味でホスピタリティを感じる映画でした。

冒頭、「一晩の宿が一生の宿に」とありましたが、ある意味そうなりました。観られていた方々もそう思ったのではないでしょうか。

私という犠牲が残ったという事で溜飲を下げられた方々が多々いらした事かと思いますが、私が精神障害者だという事を完全に失念されている方が多かった様です。

前述した様に、私は社会生活に支障をきたす様なコンディションの状態です。経歴からも自明の事です。朦朧としています。報道から匂わせで私の状況を伝えられる向きもありましたが、ご存じの通り、大きな枷のある状態で何とか生きながらえています。

26年前から訴えているのですが、私の主張は不明瞭な形で処理されて、我がメンタルは自らのオプティミズムによってのみ支えられているというのが現実です。不明瞭なだけではありません。ご存じの方も多いかと思いますが、数年前から軽度の認知症という診断を下されました。これは他所で楽観視出来るという見立ても頂いたのですが、現実には杖にすがるという生活を強いられています。「杖にすがるとも人にすがるな」という言葉があるらしいですが、音楽にすがっているという面もあるのかもしれませんね。いや、「大事なのはチョコじゃなく分かち合う人たちよ」というセリフの通りなのかもしれません。

宿命なのでしょうか、何でしょうか。この様な人生を歩む事で悪意に晒される機会も増えました。ペシミスティックに陥りそうにはなりますが、意思の力で限界からたちのぼり「願い」という杖にすがってウォンカならぬ「ノートルダムの鐘」のガジモドとして物語を生きているのです。




今、「陥れる」という言葉と「ペシミズム」という言葉の関係性を調べようとしたら、誤った回答に導こうとする嘘情報が次々と表示されました。

AIによって私の作業を妨害しようとする巨大な意志が存在する様です。
世界がヴィランとなって私に襲いかかって来ています。

全ては「願い」を亡きものにする為の邪悪な意志なのです。

邪悪な意志は様々な形で襲いかかって来ます。先日、空からポルコ・ロッソに襲撃されたのも記憶に新しい出来事です。空中戦が得意なポルコ・ロッソらしく、アクロバティックな戦略を繰り広げていましたが、ポルコ・ロッソらしからぬ犠牲者を出すという体たらくの末、赦されるという形で退いて行きました。カッコイイとは私の事だと独りごちましたが。



「願い」を叶える道のりで救いの手を差し伸べて下さった偉大な存在があります。

妥当な比喩だとは思いますが、ドストエフスキーという偉大な存在は「願い」を叶える為に借金を作ったり、大きな咎を背負った方だったらしいです。

素晴らしい「ホスピタリティ」を感じました。

恩返しを為す際に善意の齟齬で労を負わせてしまったのですが、今となっては悔恨の念が残るのみです。

ドストエフスキーはこんな言葉を残しているらしいです。曰く「思い出は苦しみに等しい、沢山のものを失ったに関わらず、私はまだ生を熱烈に愛している」
 
結果、あの日は私にとって「吉祥」となりました。幸先が良いという意味だそうです。



「願い」という言葉からは成就という幸先の良い肯定的な言葉が連想されるわたしはオプティミストなんでしょうか。

現実には潰える、消える、という言葉が明滅して現出しているにも関わらず、です。ペシミストであれば、とっくにこれらの言葉に飲み込まれていたでしょう。

映画のプロットには様々なバリエーションがあるらしいですが、私の様な起伏の激しさは果たして「願い」を叶えるエンタメとして成立するのでしょうか。

谷底からの復活を再生、rebirthと表現するのであれば、この短期間にプロットとしては雑すぎる程繰り返しています。

人間の欺瞞、愛、打算、情といったものが模様編みの様に浮かび上がって来ます。

まあ、浮かび上がって来るのはあくまで私のまなこにのみであって、これも私の一種の願望、「願い」でしかないんですけどね。

普遍性のあるものに落とし込むには、よりディズニー的な寓話性の高さが必要となってく来るのかもしれません。ディズニーアニメには多々名作がありますが、共通しているのは必ずハッピーエンドになるという事です。

先述しましたが、「ノートルダムの鐘」という作品があります。人間を判断する際に見た目でなく中身を見る事を大切にするという差別の愚かさ、無情さをメインテーマにしている話です。「星の王子様」の主旨、「大切なものは目に見えない」とシンクロしています。「ホスピタリティ」、深い思いやり、相手に寄り添う事が大切と説いている訳です。

主人公のガジモドは怪物の様な見た目です。しかし清明な心の持ち主です。私も見習うべき所です。
ヒロインのエスメラルダはジプシーとして悪という立ち位置を強いられながら、カジモド同様、清明な心を持っています。
最高判事であるフロローは風紀の乱れを無くす為にジプシー狩りを行うのですが、自分は正義だと信じて疑いません。そしてエスメラルダに対して歪んだ憧憬の念を抱くのです。

エスメラルダは死刑にかけられますが、窮地を救い、エスメラルダを抱き抱えたガジモドは育ちの故郷とも言えるノートルダムの塔に登り、「ここは聖域だ!」と叫びます。

救いをもたらして下さった全ての存在に対する感謝の念から発した言葉と言えるでしょう。

終盤、エスメラルダとの恋が成就するのは護衛隊長のフィーバスなのですが、これは物語としての技巧です。続編へ気を持たせている訳ですね。

続編は存在します。物語の事ではありません。現実の話です。ラストシーンは皆さんが想像した通りのものになるのでしょうか、どうでしょうか。あまりにもペシミスティックかもしれませんね。オプティミズムに救われる形で「願い」を叶えたいものです。



「ホテル」から出て再びコーヒーショップへ行きました。
その日は前日豪華なクリスマスプレゼントを頂いたあの日本を代表する方々から「ワガママを言う人間では無いのですが」無理強いする形で再びプレゼントを頂く形となりました。
「人に幸せを与える仕事」をなさっている方々だと実感したものです。



「豪奢」と宣言してしまった以上相応しい注目すべきトピックが必要ですね。
映画「ウィッシュ」を観てきました。
想い出深い地で、です。

ロサス王国のアーシャの人生は意図せずして垣間見える訳ですが、王国の対極にある部屋の住人である私も人生を意図せず晒しています。共通しているのは「願い」に突き動かされて生きているという事です。

スターとヤギのバレンティノと共に事を遂げる為に物語を歩んで行きます。

私にはバレンティノこそ居ませんが、スターはスターとして想いを馳せる以上の存在になっています。

もしも愛する者の願いが叶わなかったら
という言葉が師走の心に響きました。

「もしも」という言葉の意味する余白が幾千万光年に感じられます。ゴールのわからないマラソンが一番辛いと言いますが、まさに今、その途上にいるのです。死ねると言った以上苦でも無いと言えばそうなのですが。ゴールを目にしてから死にたいものです。

王は裏切り者は罰すると言います。
不実を働く者は罰せられるべきでしょう。

しかし、不実を働く者は「願い」を妨げようとする意思の中にこそ存在します。そんなトピックをお伝えしたばかりです。

「願い」は単なる想い出ではなく心の一部というセリフがありました。私はご存じの通り心が朦朧としているのですが、同じ人間であるのならば、心を持っているのであれば、美しい心でありたいですよね。そう思いませんか? 

スターを連れての逃避行の果て、アーシャは家族まで巻き込む事になります。人間は自分を犠牲にする事には耐えられますが、愛する者を犠牲にする事には苦痛を伴うものです。
甚く共感しました。

あの夜、言葉をかけられた通り私に出来る事は感謝しかありません。ただ叶うその日まで襲いくる有象無象に耐えるしか無いのです。

マラソンにゴールが在るか否か、
霧の中、運命的の果てを見通せない私にはわかりかねます。しかし、願いの為なら身を捨てられます。きっと、「ウィッシュ」を叶えてみせるつもりです。約束の日まで…。
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