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ニモーナのisanaのネタバレレビュー・内容・結末

ニモーナ(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

傑作!

今、この時、この時代、この瞬間だからこそ作られるべき、そして作られたクィアな寓話。

【※むちゃくちゃ長いのと、自死に関する文章がちょっとあるよ】

視聴後の今、たしかに傑作を見た!という確信と興奮のままに書いているので、かなり荒れた文章になっているかも。
今の自分の気づきをメモしておきたいので、以下にどんどん書いておく。


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まずはキャラクターから。


●バリスター

まずビジュアルが素晴らしい。というのも…

バリスターは孤児で有色人種でゲイという、作中世界においてもマイノリティだけど(とはいえゲイはあの世界では既に揶揄う対象ではないっぽい。意地悪な同期もそれには触れないので。しかしそれもしっかり話の仕組みに後々効いてくる)、私たちの現実世界においてもマイノリティとされる属性を多く持つキャラクターなんだけど、性格においても「男性」というカギカッコの範囲内においては珍しいとされる「繊細で」「少し気弱で」「喜怒哀楽の感情を隠すことなく表に出し」「暴力を嫌う」性質を与えられている。あらゆる方面でマイノリティな要素を持つキャラクターとして設定されてるね。うーん、盛り上がってきた!

実際彼は…(※彼がシスであると仮定して、“彼”を使うね。性別についてのクエスチョンが作中内で示されたのは二モーナだけなので)とってもロマンチストで、自分の右腕を切り落としたパートナーを信じてやまないところがあるし、突然現れた不思議なニモーナという存在に対しても暴力で対抗しようとしない、それどころか、積極的にニモーナの心理的ケアをしてみせる(最大の“ケア”がクライマックスのそれだったよね!)。
「騎士」という純血主義でマッチョイズムに満ち満ちていそうな職業からは想像できないくらい(実際、騎士学校はそういう気配に満ち満ちてましたよ〜という描写はバリスターが同期から嫌がらせを受けている一連の場面で描かれている)、シンプルに言えば実に「優しい」男性キャラクターだ。

そんなキャラクターのビジュアルを再度見てみよう。

髭!髭!髭!生えかけの髭!
目の下に傷!眉毛にも傷!
筋肉も、まぁまぁある!

バリスターのキャラクターデザインはかなり「男らしい」造型をしている。

(他の騎士が容姿にそこまで「男らしい」記号が付与されていないことも意図的だろう。バリスターの存在を際立たせるための)

私たちの社会が構築した「男らしい」とされる要素を内面にほぼ持っていないキャラクターにも関わらず、その外見はとっても「男らしい」要素に満ちているのだ。
この外見でこの内面をやるからこそ、きっちりとアンチホモソーシャル、アンチマッチョイズムの文脈を語ることが出来ている。このキャラクター造型だからこそ、クライマックスが最高に活きる。

さらにディズニー作品のディープなファンとして一歩踏み込んで言えば、バリスターというキャラクターは「ディズニープリンセス的」要素(コミュニティのやり方に馴染めないはぐれもの、妖精的存在を連れておりかつ妖精に優しい、etc….)も持ち合わせているので実質プリンセスとも言えると思うのだが、この話はまとまりきってないので割愛!



●二モーナ


意外にニモーナの造型に関してはあまり言うことがなかったりする。文句なしというかなんというか…

とくにキャラクターデザインについては、まぁクィアなキャラクターとしてはさもありなんなスタイルなので(metal…な感じとかもストリートなファッションもありがちっちゃありがち)、言うことなし。
いわゆるコミュニティにおける「はぐれもの」のアイコンを多く備えたデザインで、それはそのままこの物語におけるニモーナの役割を示している。

(※赤毛のモンスターといえば、真っ先に思い浮かぶのはアリエルなのだが((あいつも普通に人外なので))、人間のコミュニティに馴染めないのに憧れ続けているキャラクターとしてはニモーナと共通点が多い。とはいえアリエルはマジョリティに迎合する形で自身の姿を変容させて人間のコミュニティに受け入れられていくのに対し、ニモーナはありのままで受け入れられていく。これは作られた時代の差だろう。私たちがゆっくりだが確実に前に進めていることの証左かな)

ニモーナのキャラクター造型で面白いのは、おそらくニモーナは意図的に「女の子」でも「男の子」でもない存在として描かれている点だ。
これは私がこの映画をクィアの寓話だと主張するポイントのひとつでもある。

おそらくニモーナというキャラクターの表象の意図としては「ノンバイナリー」ないしは「トランスジェンダー」、もしくは「ジェンダーフルイド」、もっと大きな括りで言えば「クエスチョニング」というものが確実にあると思う。


具体例を挙げていこう。


「列車でバリスターとニモーナが移動しているシーン」がわかりやすいかな。2人の会話を思い出して欲しい。



バリスター「普通にできないか?」
ニモーナ「普通って?」
バ「女の子でいた方が楽だろ」
ニ「女の子のほうが楽?笑える」
バ「人間の姿ってことだ」
ニ「誰にとって楽?」
バ「君だよ。俺は理解があるけど」
ニ「んー…」

バ「なぜそんなふうに?」
ニ「すごくなったか?」
バ「じゃなくて…君が何なのか知りたい」
ニ「私はニモーナ」
バ「全く説明になってない」
ニ「分かってる 知る権利があるよね」



このあと、ニモーナはバリスターに自分の過去を話す…と見せかけて、茶化して終わるので、「目の前の相手が何なのか」「相手がそうなった過去について」を「知る権利」なんてものは誰にもない、ということになる。
実際そうだ。「私がなんであるか」を証明しなくてはならない(しかも相手が納得できるだけの説得力を持って!)義務など誰にもない。鮮やかなアンサーである。

結局ニモーナはバリスターに自分の過去を語らなかったし、自分がなんであるか、についても「私はニモーナ」以上のことを語らなかった。(※実はニモーナの過去の体験は観客にこっそりお見せされるだけで、最後までバリスターは【ニモーナの本当の過去を知らないままで】あのクライマックスへ辿り着く。ここがこの作品のすごいところだ)

この一連の会話は珍しくフィクションにおいて他者の身体をあれこれ聞くことの無礼さーーいわゆる「マイクロアグレッション」を描き切ってみせた素晴らしいものでもあるのと同時に、ニモーナがずっと他者に対して「して欲しかったこと」をバリスターに伝えている大事なシーンでもある。

つまりニモーナの言いたいことはこういうことだ。

【自分を外見から推察できる何かにジャンル分けするのではなく、もしくはわかりやすいジャンルにいるようにとニモーナに要請するのではなく、もっと言えばニモーナを「自分が理解しやすい何か」に「ジャンル分けすることなく」、「私はニモーナ」以上の証明を求めないで欲しいということ】である。

「女の子」に見える格好でいたときに、それは誰にとって楽なのか?それは当然バリスターにとって、楽なのである。ニモーナにとって、ではない。
「普通normal」でいてくれという要請の中には、「自分が楽だし安心するから」というバリスターの怖れが隠れている。
(※“normal”でいてくれーーこれをゲイのキャラクターが言うところが本作のミソである、素晴らしい)

実際、後の場面においてニモーナは「正直、変身しないほうが身体がムズムズする」と言い、変身するのを我慢したらと提案するバリスターには「死ぬ」と言い、冗談めかしつつも「生きてる感じがしないってこと」と言い換える。
ニモーナにとって姿が一瞬ごとに違うものへどんどん変容していくことは自分自身にとって「生きている感じのする」在り方であり、その在り方が周囲に受容されず排斥されることがニモーナの傷つきを生んでいる。
(※過去の体験においても、ニモーナは最初熊と勘違いされて攻撃を受けるが、すぐに人間の女の子に変わる。が、攻撃され続ける。つまり恐れられているのはその「変容する」在り方そのものである)

この構造はそのまま、現代社会において自己のありのままの在り方、その身体表現を周囲に受容されず排斥され続けているトランスジェンダーやクエスチョニングの人々が置かれている状況に当てはまる。
最終的に傷つき果てたニモーナが、街を攻撃するのではなく、自分を殺すーーー自死に向かうところも含めて(性的マイノリティのほとんどが10代から自殺願望を抱くというデータも出ている)、実に現実をよく映している物語だと思う。

考えすぎだろうか?そうでもないだろう。
こんなによくできた映画の制作陣がこの程度のことも考えられていないと観客が侮るのであれば、その方が失礼というものだ。
要素は揃っており、構造もよく考えられている。これは意図的だろう。

ニモーナについてはこんなところだ。
本当に良いキャラクター!クィアネスを持つ子どもたちにとって、これ以上なく共感できるヒーローだろう。



キャラクターについてはここまでにしておいて、物語の総評を少し。


この物語は、【コミュニティから排斥されたものたちの、困難な連帯について】語るものであると私は受け止めた。
同時に、インターセクショナリティについて真っ向から描いてみせた作品でもあると思う。

前述したようにバリスターは孤児で有色人種でゲイ、かつ見た目に反して心優しく喜怒哀楽の激しい男性なのでニモーナと同じくらいマイノリティな要素を多く持つキャラクターであり、ヤバイ校長に抗うぞ!という目的も一致している2人は一見うまくやれるように見えるけれども、ほとんどうまくいかない。

ニモーナは騒ぐのが大好きだしすぐ暴力に走るが、バリスターは静かにしたがるし暴力に走りたがらない。まず他者とのコミュニケーション方法として選ぶ手段がてんで違う。
バリスターは自分の右手を叩き切ったパートナーを諦め切れないが、ニモーナはそれを洗脳だと言い切る。恋愛観(ニモーナが他者とロマンティックな関係を結ぶ人かわからないから仮定の話だけど)も違いそうだ。

なによりバリスターはニモーナの変身というアイデンティティを最初認められなかった(だから無遠慮に身体のことについてあれこれと聞いた)。

それも当然の話で、2人は確実に性的マイノリティの一面があるが、一律で捉えられるものではなく、さまざまな要素を持っているからこそ、ある面ではマジョリティになり、ある面ではマイノリティになる。

たとえばバリスターはゲイだが、あの世界ではどうやらゲイの存在はとくに珍しいものでもないらしい(それを取り上げて揶揄されるシーンなどがないため)ので、その面ではバリスターは集団に埋没できる存在である。また、なによりバリスターは「変身能力がなく」かつ「変身する必要がない」と感じて生きているため、その面においてはニモーナよりも、マジョリティ側に近づくのである。

これはかなり現実に近い。
単純に言ってしまえばゲイはきょうび珍しくない(既に社会に受け入れられ始めている)が、トランスジェンダー(ないしクエスチョニング)は珍しい、つまり、まだ全然社会に受け入れられていない、という話でもある。

だから、“コミュニティから排斥された性的マイノリティ”たる2人の間にすら、まだ、勾配があるのだ。
姿を変えなくては生きた心地のしないニモーナと、姿を変えなくても生きていけるバリスターでは、どちらの方があの壁の中の街で「生きやすい」のかは明らかだろう。

しかしバリスターは己のそうしたある種の特権性ーー「姿を変えなくても生きていける」状態であることによって知らず知らずのうちにもっている特権に、イノセントなまでに無自覚である。
だからバリスターは自身にもあるマジョリティ性に無自覚なまま、怖れと無知のままにニモーナの身体についてあれこれと侵襲的に詮索するし、最終的には大衆側についてニモーナを排斥しようとしてしまう。

バリスターはマイノリティだ。
しかし、ニモーナと並び立ったとき、彼はマジョリティになる。

この物語はここを描こうと試みた点において、無限に評価を得て欲しいところである。





大好きな作品なので全面的に褒めてあげたいところなのだが、ニモーナが自己犠牲によって街を救う終わり方はあまり賞賛できないものがある。

マイノリティが自らの命をもって集団に対する自己の有用性を示したから、集団に受け入れられることができました、というあのオチは、最後の最後でエンタメとしての心地よさを優先してしまった終わり方だったと思う。
有用性のあるマイノリティなら生きていてオッケーというのも乱暴な話だ。

流石に製作陣に理性が残っていたのが幸いして、ニモーナを殺して終わることはなかったが(死んで終わっていたら最悪の映画になるところだった)、しかしまぁ、かなりギリギリだった。

また、このお話の肝の部分として「語り継がれてしまった偽りの物語」による「間違った教育」があったと思うのだけれど、それを塗り替えるために「力」で「力」に対抗して終わるというのも、もう少しズラした終わり方にはできなかったのかな、と感じてしまう。

ニモーナの敵として描かれている校長だけれど、あの人も言うなれば、民衆が作り上げた「自分たちにとって都合がいい」偽りの物語による間違った教育の被害者であるわけで…。
ニモーナとバリスターの関係を繊細に描いていく中で、「相手をよく知ること」で「相手がなんなのかわからない恐怖」はやわらぐと、だからたくさん話をしようと示してくれていた本作におけるラストが、「間違った教育」の被害者を「力」でねじ伏せるものであってよかったのだろうか?という疑問はやはり、残り続ける。

(※もっともたくさん話をする、の話の中には「身体について無礼に詮索したり」「話したくない過去を掘ったり」することは含まれない。その二つがなくても、友達になれるでしょ?ってことだ)

あの校長と、ニモーナが落ち着いて対話することができれば…たとえば、どうだっただろうか?と想像せずにはいられない。
ニモーナという「他者」が、常に変容し続けている、その在り方を校長が受容できたのならーーーもしかすると、校長自身もまた今現在の自分から変容するという生き方を、肯定できたのかもしれないと、思えてならないのである。





色々言ったけど結局総評としては最高!であり、全体を見ればまずまず…というかかなり素晴らしい出来だったので、ラストは薄目で見送ろう。

性的マイノリティへの風当たりが強い昨今の中で、マイノリティ同士の間にもある連帯の難しさと勾配について描こうと試みただけでも十分意義ある試みだったと思うからだ。

『ウルフウォーカー』と並んで、久しぶりにいいアニメ映画を観させてもらった。
原作コミックスも読もうと思います。
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