Martha

月のMarthaのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
4.0
とりあえず見終わったので殴り書き。

この作品そのものが善いか悪いかは判断できないけれど、見てよかったと思う。
出てくる登場人物の性格、音の使い方や映像の切り抜き方、カメラの動きまで全部不愉快だった。でもそれでいい。これは愉快な作品では無いから。全部が不愉快で不気味で、肯定は出来るものではないのにどこか見慣れた感じがする。
登場人物の殆どに嫌悪感を覚えたのに、その誰しもに自分と重なる部分がある。
気持ちが悪くて、上映中退席したいと思う瞬間が何度もあった。
汚物が映っているからとかではなく、人の描写が悍ましかったから。よく見る、人間の汚い部分、周知の醜悪を上手く切り取られると、こんなにも気持ち悪いものなのかと実感した。心が弱いからこそ楽天的に振舞ってみせる無責任な昇平のお気楽さも、彼の作品や生き方を馬鹿にする同僚も、自分には才能がないと自己憐憫に浸っては人も物事も歪んで捉えて批判して否定する坪内洋子も、そんな彼女を育てた両親(キリスト教徒でありながら虐待まがいの体罰や不倫を繰り返す父親とそんな夫を野放しにしている母親)も、自分は他人とは違うと信じたくて、他人の芸術やら心情やらを分かった気で語るサトくんも、入居者に容赦なく悪意をぶつけて「みんなやってるから」と言い訳する職員も、無茶苦茶な運営体制であることを分かっていながらも投げやりに施設を運営している園長も、全部気持ち悪い。でも、私だって彼らに石を投げられる立場じゃない。きっと私の中のどこかに同じような要素はあるだろう。
怖いと思った。自分も、人間も。
虫や植物、蛇と蟻、ミミズや、"要らないものを刈り取る"鎌の形と三日月の形。動きの多いカメラワークと、不意に挿入されるBGM。
全てが完璧な程に不気味だった。

私は、医療現場で毎日を過ごしてる。
大学で医療について学んで、勿論生命倫理も学んで、きちんと習得して国家試験に受かって現場に出た。それでも、総合病院に出れば様々な病気で入院している人たちの中には障害のある方や認知症で本能的になっている方達もいて、彼らが部屋中に撒き散らした汚物を清掃する時、治療するために近づいた私たちに噛み付いたり爪を立ててきた時、当然腹は立ったし嫌だと思った。意味もなく怒鳴られることもあるし、言葉にならない喃語を永遠に叫び続けられることもある。臭いのも、汚いのも、現場に居ない人間には本当のことは分からない。同じ大学を卒業した様々な科の医療従事者の友人たちの中には精神科の閉鎖病棟に勤務している子もいる。その子は、働き出してから段々性格が変わってしまった。狂気的になった訳では無いけれどやけに厭世的になった。
当然だと思う。正気の人間から蝕まれていく。
認知症だから、障害者だからと憤ることも許されずただひたすらに尽くして、医療報酬は規定があるから莫大な報酬が貰える訳では無い。若くても幼くても、お金の問題や家族の問題で命を落とす人間は沢山いるのに、お金さえあれば見当識が無くなり医療従事者達に手を上げる人達でも延命はできる。そういう時、何度も考えた。「この人たちはなんのために生きてるのか」。高齢者の治療をしている時、私たち若者に嫌味をぶつけながらももっと生きたいと望む人たちを見て、もう充分生きたんじゃないか、この人たちに割く時間を、お金を、労力を、未来のある子供や若者に割くべきじゃないかと考えたこともある。
入院施設から外来診療に転職しても、歳を重ねて弄れてしまった人達が"お客様"面をして看護師や理学療法士たちや医療事務に悪態をつく姿を何度も見て、高齢者医療にかかる税金を削って出産育児の支援に充てられたらどれだけいいだろうと考えたこともある。高齢者が1割負担で医療を受けられるための資金も、年金も、全て私たちの税金だ。この人たちのためにお金を使ってどうするんだと思ってしまったことは何度もある。なんで生きているんだと思ったことも何度もある。だから、サトくんの中にあった苦悩は確かに分かってしまった。
どれだけ尽くしても、感謝の言葉が貰えることなんて少ない。家族も会いに来ず、自分の名前も分からない入院患者達は、ただ同じ毎日を狭い院内で過ごしている。寿命が尽きるまで、ずっと同じことを繰り返している。この人たちにとって生きていることは幸せなのか、ただ食べて排泄して息をするだけの毎日を生きていると言えるのか、何度も考えた。
"障害者"について考えた時、理性的な自分は、彼らや彼らの家族を"可哀想"と憐れむことは彼らに対する冒涜だと分かっている。"障害者は可哀想ではない。表出できなくても思考はあって、心もあって、逆に健常人のように弄れていくこともない分綺麗な世界で生きていける。悪いことばかりでは無い"と、普段はそんな考えを持っている。でもそれだって、建前だと言われたらそれまで。なら自分の子供が、親戚の子供が、障害者でも喜べるかと言われれば答えはNoだ。身に迫って居ないから、建前じみた偽善的な主張を出来るんだと思う。障害者に生きる価値がないと思ったことは一度もないけれど、自分がそうやって生きたいかと言われればそんなことはなくて、五体満足に、こうして思考できる身体に生まれてよかったと思っている。
私は、きっと周りの他の健常者たちも、心の中はとんでもない矛盾と偽善だらけだ。

今回、サトくんは"会話をできるか"で人間か人間でないか、生きる価値があるかないかを選別していた。
視点を変えて映画を見てみれば、"生きる価値が無さそう"な人間は作内に沢山居た。
悪意を持って悪態をつく人間、暴力を働く人間、不倫をする人間が居た中で、悪意すら持たず、意図的に人を傷つけない障害者たちは余程生きる価値があるのではないかとも思う。
それに、映画の最後できーちゃんのお母様の慟哭が描かれていたように、遺族からすればどんな条件の人だって大切な家族であるケースが多い(障害のある家族を認められない人たちも散見されるけれど)。立場によっては誰から見ても生きる価値がない人なんてなかなか存在しなくて、誰かの大切な存在である限り、その誰かのために生きる価値があるんじゃないかとも思う。

どちらにせよ、自分が正義感に駆られて命の選別をすることは無い。人間が人間の生きる価値を選別しだしたらキリがないからだ。命の選別は人のすることでは無いと諦めて、自然の成り行きに任せることで私は壊れないように自分を守っているのかもしれない。
逆に言えば、きっと辛い現実の中、其れから目を逸らすことなくずっと考えていたら、それこそどんな人でもどうなるか分からないんだと思う。
何が正しいかなんて分からないし生きてる価値だって分からない。
その答えは出ることはなくて、もう考えるのもやめた。目を逸らすことで、自分を守ろうとしたけれど、その現実を、目を逸らすなと突きつけられた気がした。
Martha

Martha