もうかなり前に見たのだけど、上手く感想書ける気がしなくて。
でも、先日、「正欲」を見て、何となく自分の中で腑に落ちたというか、心が決まったので、書いてみようかと思った。
以下内容に触れます
私としては、最後の方で、オダギリジョー演じる夫の作品が海外のコンペティションで受賞した、というエピソードに、ヒロインと夫に感情移入して嬉しさを感じると同時に、一方でこれ、全然いらないエピソードだよね?と思った。
もちろん、夢を見ること、見せることが悪ではないけど、ここで、「頑張った人が報われる」的なエピソード要る?
だって、世の中の大多数は、頑張っても報われない人で、更にまたいくらかは、頑張ることすらできない人たち。
そう、施設に入所している障がいのある人々のように。
もちろん、頑張る人も頑張れない人もいるし、諦めない人、諦める人、両方いて、報われる人報われない人、いろいろいる。
そのどれもが、正邪、善悪ではなく、存在するんだ。
そして、その存在は、ただ在ることで、誰か特定の人や思想によって、ジャッジされ得るものではない。
ああ、「正欲」と同じなんだ…
と思った。
奇しくも、両方の作品にキーパーソンとして出演している磯村勇斗くん。
「正欲」では、誰からも肯定されることのない真の自己について諦めながら生きてきたが、同じ性向をもつ同級生と再会することで、生きる歓びと、希望を感じ始める役。
誰も傷つけることなくひっそり生きたいと願い、いやむしろ生きたくないとすら願っている。
本作「月」では、その真逆で、自分で自分を強く信じて肯定している故に、自分のジャッジが正義であると信じて疑わない。いつも前向きで努力家だけど、どこか独善的で、最終的には、多数の人に危害を加えてしまう。
こんなにも真逆の役を、胸が痛くなるほど、鬼気迫るように、演じ分けてくるいっそん最高。
人間社会が、動物と違って、ここまで進化し得たのは、という仮説を聞いたことがある。
弱った個体、障がいのある個体。自然の動物界では淘汰されるべきそうした存在を、助け、命を繋いできた、それを社会の掟として生きてきた。それが人間。
そこにある命を尊重し、守ってきたのが人間であるなら、足手まといになる命を抹殺する社会は何者によるものなのか。
誰がジャッジできるというのか。
存在の正しさなんてない。
あるのは存在するという事実だけ。
人はそれを抱えて生き続けるしかないんだ。
報われようがそうでなかろうが、役に立とうが立つまいが、しゃべれようがしゃべれまいが。