鶏

市子の鶏のレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
4.8
『きっと明日はいい天気』

NHKの朝ドラ「おちょやん」で主演を務めた杉咲花が主演ということでしたが、個人的に彼女は初見。それで驚いたのですが、演技が抜群で、彼女が演じた「川辺市子」という人物が、本当に実在の人物のように感じられました。

内容的には、いずれも昨年公開された「さがす」や「ある男」と同じ系統と言えば同じ系統で、突然失踪した家族(本作の場合は同棲相手だけど)の行方を捜す物語であり、戸籍制度のエアポケットに関わる物語でした。本作では、父親のDVから逃れてようやく離婚した母親がその後市子を出産したものの、民法の規定のために出生届を出せなかったが故に無戸籍になってしまい、結果的に公的公的医療保険は勿論、「市子」としては学校にすら行けないなど、一切の基本的人権がない状況のまま大人になって行くという痛ましい物語を突き付けられるというとても重たいお話でした。

そんな痛ましい状況下で生きる市子ですが、生きて行くために文字通り何でもして来たことが描かれています。生まれは1987年、本作の舞台は2015年だったので、齢28歳の女性な訳ですが、この間辿った彼女の数奇な運命は、想像を絶する苦難の連続。そんな彼女の半生に、リアリティというか立体性を持たせ、物語を重層的なものにした戸田監督に拍手を送るとともに、繰り返しになりますが、市子に魂を吹き込んだ杉咲花の演技には最大の賛辞を送りたいと思います。

因みに本作のテーマとなる「戸籍制度」ですが、世界的に見渡すと日本以外では中国と台湾にしかないそうです。以前は韓国にもあったようですが、男系血統中心の家父長的家族制度を土台にしている戸籍制度は、男女同権などに反するということで最高裁で違憲と判断され、2008年に廃止されたそうです。

ただ本作の魅力と言うか、いいところ(奥ゆかしいところ?)は、世界的にも稀で、韓国同様に明治以来の家父長制に端を発する戸籍制度に対して、「断固反対!廃止せよ!」というメッセージを声高に主張している訳ではないところでした。むしろ、戸籍制度からこぼれ落ちてしまった人に光を当て、そうした人を社会として如何に包摂していくかということを考えさせてくれる優しい視点こそが、本作の肝だったように感じました。

本作の中盤で、市子が戸籍を作りたいと支援者に相談したことが語られます。制度的にも「就籍」という手続きをすることで、戸籍を作ることが出来るとのことですが、そのためには指紋採取や親の認知証明が必要と分かった市子は、支援者の前から姿を消してしまったそうです。支援者の話では、こうしたことを伝えると、半数の人は就籍を諦めてしまうとのこと。勿論戸籍を作るという事の重要性を考えれば、一定の審査や手続きが必要なのは充分に理解できますが、そのハードルが高いと感じて戸籍取得を諦めてしまう人を放置しておいていいのかという議論もあって然るべきでしょう。

なお、法務省が把握している無戸籍者は3千人余りということですが、「無戸籍の日本人(井戸まさえ著)」 という本によれば、実際は1万人以上いるようです。その原因としては、本作でも問題になった民法772条2項の「法的離婚後300日以内に生まれた子どもは前夫の子と推定される」という規定にある場合が多いとのこと。本作のように、DV夫と離婚した後でも、300日以内に生まれてしまった場合は、DV夫の子として出生届を出さなければいけないことが障害となり、結果として無戸籍になってしまうケースが多いようです。

話を物語に戻すと、本作は殆ど音楽が掛からない作品でしたが、唯一市子が口ずさむ「にじ」という曲が印象的でした。何処かで聞いたことがあるようなないような曲でしたが、子供向けに作られた曲のようで、以下のサビの歌詞が繰り返されるものでした。市子はメロディーを口ずさむだけで、この歌詞自体は本作で登場しないのですが、これを読むとまさに市子の気持ちを代弁した歌詞であり、結構泣けるものでした。これを敢えて表に出さず、メロディーだけ口ずさむシナリオにしたところも、実に奥ゆかしくて素晴らしい創りでした。

「にじが にじが 空に向かって
 君の 君の 気分も晴れて
 きっと明日はいい天気 きっと明日はいい天気」

またパンフレットを読むと、戸田監督は黒澤明監督の「羅生門」を参考にしたとのこと。確かに市子の子供の頃からの友人や同僚などの証言をオムニバス形式にして市子の行方を捜していく流れは、まさに「羅生門」形式。ただ論理的整合性の観点から、誰かが嘘を言っていることになる「羅生門」と違って、一見矛盾することも実は全て整合しているというのが本作の特徴であり、名作に触発されて自分流を築き上げた本作の構成は、中々見事だったと感じました。

そんな訳で、本作の評価は★5とします。

市子の明日に幸あれ!
鶏