宙崎抽太郎

他人と一緒に住むという事の宙崎抽太郎のレビュー・感想・評価

他人と一緒に住むという事(2021年製作の映画)
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現代劇を纏った原始芸能
『他人と一緒に住むという事』
八木橋努監督

ほしのあきら(敬称略)がアフタートークをするというので、ハイロのチラシを持って行った。何故か、流れで、司会進行を八木橋監督から仰せつかった。

映画を見た。家のない人が、家がないからこそ、他人の家に上がり込む。夫婦でも家族でもないのに、何らかの【族≒生存場を共有する者】になる。無職おじさん、被災者、芸術家ニート、女王様、同時多発的に家のない人が、発生し、貨幣のように、人様の家、生活、事情の余白に入り込み、流通していく。自動交換されていく。出来事は即物的で分かりやすい。なのに、根源的な部分で何かが圧倒的に分からない。どこからどう割り算しても、腑に落ちない【余り】が出る。言語化不可能性。この映画は、何かを描いたから、面白い、価値があるのではなく、何かを切り捨てているから、何かを描かないから、面白い、価値があるのではないか。または、何らかの部品が構造的に脱落している。だから、見ながら、躓きつづける。分かるけど、どこで、何かがつっかえつづける。一体、それは何なのか。司会進行をしながら、その謎に追われた。そして、映画内人物たちは、回転木馬のようにぐるぐると同じ風景を周りつづけ、土を入れた水槽の蟻たちがガラス板越しに巣穴の迷路をせかせか作りつづけるがことく自分の事情で生活し、ゆっくりと、しかし、確実に変化してゆく。

謎の発生源は、八木橋監督の佇まいにあるのではないか。映画上映前の突如闖入させて頂いた打ち合わせの際、八木橋監督の佇まいが、普通の人、普通の役者、普通の俳優、普通の演出家、普通の監督と違い、ニュートラル過ぎた。そのニュートラルさは、能役者や古武術者を思わせる、癖や拘りをことごとく脱臼させ、無意識的身体統御レベルの半端ない深さを感じさせる。彼岸的な湖、無意識的身体統御レベルが半端なく深い。善悪、好悪、都合不都合を超えた、ただ、物として、自然としての在り方、眼差し、凪いだ莫大な水量を感じる。深作欣二がバトロワで、スラムダンクを持ち込み、こういう顔してくれと俳優に言った、ある種の若さや、灰皿を投げる蜷川幸雄やつかこうへい、電柱を引っこ抜く黒澤明とは違う別種の厳しさ。対局。演出ではなく、人ではなく、草深い山奥で藪漕ぎしながら辿り着いた静寂の湖。莫大な水量を抱えながら、白波を立てることもなく、ただ凪いでいる。しかし、湖面は静謐に凪ぎながら微細にうねっている。そんな【人≒者】ではない監督がカメラの後ろに【物≒自然】として、そこにいる。形容詞としての【自然】ではなく、名詞としての【自然】として、そこに【あった】のではないか。【いた】のではなく、あくまでも【あった】のだ。カメラの後ろに監督の代わりに樹がいたら、どう思う?樹齢5000年のガジュマル
つまり、八木橋監督が監督として立つということは、人、観客に対して、芸を表現する、させる、というよりも、自然、物、に対して、奉納させることに等しいスタンスが自動的に成立してしまったのではないのか。カメラの後ろにいるはずの監督に目を向けると代わりに、ゆんわりした洗面器の水がいる。そこには、ダメ出しがなく、しかし、水に少年ジャンプは通用しないから諦める。仕方なく捨てる。そんな厳しさ。場のアンカーポイントとしての中心軸が水ならば、人間は、役者は、運動する変な油として立ち現れる。ただの自然体映画と違う何らかの秘密、よじれ、いい意味でのおかしさ、即ち【変】は、『俺は見た』の俺が、人ではなく、人としての輪郭を脱臼した人ならぬ【者≒物≒自然】だったからではないだろうか。様々な監督と映画の絵柄を見比べていくとマンガの絵柄同様に、絵柄を決めるのは、最終的には表面上の演出ではなく、場における生きた肉柱の【在り方】なのではないかと感じる。映画とは、場と体の関係によって演出されたものなのだ。この映画は、何がどう面白いかではなく、何がどう変なのか、おかしいのか、という問いを立てたほうが、本質に接近できるのではないか。ほしのあきら然り、イメージフォーラム然り、この人たちの評価軸の基本は、暴力的に単純化してしまえば、言語化不可能性を内包しているか否かだ。伝統芸能じゃなくて、原始芸能。観客、人ではなく、自然に対して、芸能を捧げていたらどうなるのか?そんな実験、事件が、八木橋監督の【俺】によって、期せずして、暗礁として、迫り上がってしまった。灰皿投げ監督、演出家の対局にいるのは、平田オリザかもしれない。詳しくは知らない。知っているのは観客に役者が尻を向けて演技することがあるということくらい。しかし、歴史的に見れば、観客に向けて芸をする方が短い。古来、人間は、人間ならぬものに向けて、何かを身体行為において捧げてきた。表現ではなく、奉納してきた。この映画は、別段、役者が明後日の方向を向いているわけではない。だが、表面的な面白さの下で、円周率の小数点以下の数字が無限増殖するがごとく、起こり続けるパソコンで言うところの一般的なエラー。それは、見る側のOSと映画が実装するOSがそもそも、別物だからではないのか。現代劇を纏いながらも、実は、古代芸能語で記述されており、神話表現されている。分かりながらも、実は、分からない、受け取りきれない、こちらの受容体が発し続ける【エラー≒バグ】にこそ、この映画の真骨頂が識閾下に隠されている。つまり、【現代劇を纏った原始芸能】なのだ。


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