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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊のnocchiのレビュー・感想・評価

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995年製作の映画)
4.1
人形使い編。いやぁもう、たまらん…
90年代じみた生々しく弾ける機材描写、重た目の装甲、押井犬、S.A.Cとデジャビュする導入、イノセンスな音楽。

脳と遺伝子は、全身義体の中に、ネットの中に、ゴーストを見つけようとし、
一方で、赤い血を流すオリジナルの有機体を以てして、ゴーストが宿らないこともある。

素子は、自らの義体の中に、9課の中に、人形使いの中に、アオイの中に、クゼの中に。
マテバで戦う生身のトグサの中に、
ゴリラだろうが素子ォ!と叫び、裸体の自分に服をかけようとするバトーの中に。

己が存在を相対的に見出し、絶対値としてゴーストとして固めようとして、ゴーストを見つけきった先に、ネットの海に溶かすことすら運命ならば…受け入れることも厭わなくて。封神演義で始祖に戻る太公望を思い出す。融合した後には変わってしまったのではなくて…半身を取り戻して、ただあるべき姿へ、本体へ、戻っただけなのかも知れぬのだ(これは萩尾望都先生の「半神」の逆再生ですね)

オリジナルとは、始まりはどこであったか。我らが歴史は0の先でなく、マイナスですらあるかもしれない。
彼らの…彼女の望みは…見届けることか。受け入れることか。液体であり続けることの、なんと本質的であることか。

弾痕が辿る生命の樹にはまだ人類の道筋までしかなく、その先は、人を超え…我ら生き物の目指す場所とはなんなのか。ゴーストをなくし機体と化すことか、それとも、生命など初めから…我らの知りうるものただそれだけなのか。このような堂々巡りさえ、瑣末な、神の掌の上の遊びに過ぎぬのか、そんな答えは誰も持たぬのに、あるのかもわからぬのに、それを求めて彷徨う心こそがゴーストであると、逆説的に見出せるものなのかも知れぬ。

攻殻機動隊は、もはや道徳の教本である。
楔を、錨を求めて惑うその姿こそが、人を人たらしめ、魂をそこに留め置く。
やはり自分のロールモデルは草薙素子をおいて他にない。
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