山浦国見

ウイラードの山浦国見のレビュー・感想・評価

ウイラード(1971年製作の映画)
3.5
『ウイラード』について話すには『ベン』のことも触れねばなるまい。

『ベン』といえば、なんといってもマイケル・ジャクソン。晩年はまるでウイラードのような奇行がメディアを賑わし、古くからのファンを心配させていましたが、マイケル・ジャクソンのキャリアは1960年代まで戻る。

 まだ可愛らしく、アフロヘアーが似合う少年でジャクソン・ファイブにいた頃に歌った大ヒット曲『ベンのテーマ』はこの『ウイラード』の続編映画『ベン』の主題歌である。

 そしてウィラードというのは、気弱な青年(ブルース・デイヴィソン)の名前であり、獰猛な黒鼠の名前がベンだ。ちなみに、もう一匹出てくる白鼠の名前はソクラテス。劇中では ソンドラ・ロックとのギクシャクした恋愛も描かれている。

 有名なのは鼠たちが人間に襲い掛かるシーンなのだが、基本的には上映時間95分のうち、根暗なウイラードの日常の描写に大半の時間(80分間以上)を割き、パニック映画になるのはお金持ちの寝室を襲うシーンとボーグナインを襲わせる場面、そしてウイラードがベンたちに粛清される場面となる。

 理知的な平和主義者のソクラテスと、彼よりもラジカルでブラック・パンサー的なベンは、人間ウイラードも交えて、最初は上手くやっていく。しかし、友好関係は脆くも破綻し、ベンは最終的にソクラテスを見殺しにして、復讐を遂げるとベンら鼠を裏切ったウイラードをも抹殺する。

動物パニック映画として見ていくと、『ベン』でのスーパーマーケットの食品売り場を大群で襲うシーンなどの方が、より動物モノらしくはある。実際、このシーンでの闇夜に蠢く溝鼠どもが、ただただ不潔極まりなく、気持ち悪い。少数では迫力もないだろうが、あまりにも多いので、異様な恐ろしさを醸し出している。

ただ『ウイラード』では単なる動物としてではなく、黒白鼠を人種に当てはめると違った感じに見えてくる。

 70年代前半という時代は夢や希望が無くなってしまい、より権利や原理を主張し、どんどん住みにくい世の中に変わっていく分岐点でもあるように思う。ウイラードの現実世界での立場は非常に弱く、父親が設立した会社をかつての共同出資者(ボーグナイン)に乗っ取られ、この会社に入社するも常に馬鹿にされたり、あからさまな嫌がらせを受けながら働き、残業代も昇給も得ることなく、自分が持つ家までも彼に奪われようとしている。そんな彼には、友達すらいない。

 絶望的な人生で、彼を支えてくれたのは鼠たちだけというのはかなり悲惨だ。この映画では鼠だが、猫であってもいいし、犬であってもいいし、熱帯魚であっても構わない。つまりペットしか心を許せる存在がないという状況は、現代日本の都会では別に珍しいことではない。行き過ぎると人生を棒に振るという点でも同じかもしれない。

 それでは家庭はどうかというと、彼にとっては悲劇的なことに安らぎを得るはずの家庭環境もまた歪んでいて、『不意打ち』のオリヴィア・デ・ハヴィランドのような愛情過多で歩行困難の老母が、彼の精神を縛り付けている。60年代以降の典型的なママに溺愛された一人っ子家庭が描かれているのだ。

 彼ら親子の関係性や状況を端的に象徴するのがウイラードの誕生会場面であり、この場には彼の友人は誰一人おらず、母親の知り合いやお節介で財産目当ての醜い叔母しかいない。

 友達がいないウイラードだったが、たまたま彼の家に住み着いた鼠たちに餌を与える事で、クインシーらの鼠を飼い慣らしていく。中でも、知能が高いベンやソクラテスらを更に訓練して、自宅の地下室に鼠王国を作る。所謂オタクの城だが、彼はフィギュアを集めたり、アイドルを追いかけたりせずに、まるで「たまごっち」や「シム・シティ」を楽しむような感覚(いや、対象が鼠だから、「レミングス」が近いか?)で大量の鼠たちを繁殖させて、徐々に危険な道具に仕込んでいく。

 悪戯好きなベンは兎も角、おとなしくて賢いソクラテスを友達として扱っていたウイラードだったが、会社にまで鼠たちを連れていったことが原因で悲劇が起こる。スタッフに見つかってしまったベンとソクラテスが、社長に攻撃され、仲良かったソクラテスは彼に突き殺されてしまう。復讐に燃えるウイラードとベンは社長を殺害するが、ウイラードは散々ネズミたちを利用した挙げ句、彼らを見捨てて自分だけ逃亡する。

 なんとか地下室に戻ったベンではあったが、ウイラードが自分を殺そうとして、殺鼠剤を混ぜた餌に気付き、彼の意図を察する。明らかな裏切りに怒ったベンは地下室に彼を誘導し、集団で襲いかかる。死に絶えようとするウイラードを見つめるベンのアップで映画は終了する。

 誰も救われない陰鬱なストーリー展開はアメリカン・ニュー・シネマの流れなのだろうか。途中でソンドラ・ロックとの淡い恋愛模様が綴られるが、恋は成就する事なく、悲惨なエンディングを迎える。やはり今見てもボーグナインやウィラード(ブルース・ディヴィソン)に群がる大量のネズミはかなり気持ち悪い。

 ウィラードの人間世界での立場は陽炎のように弱く、確立されたものではない。たとえ被害を受けているのが自分の友達であっても、場合によっては消極的にでも虐めに加担するような根が暗く、意志が弱いのが彼の性分だろう。

 70年代ならば、ウイラードという人物は特異で感情移入出来ないようなキャラクターだったのかも知れないが、現在社会に於いては、職場や学校で精神的及び肉体的な暴行などの犯罪行為を受けている者にとっては、寧ろ共感を得られる時代になっているのではないだろうか。

 鼠やウイラードなどのちっぽけな存在は、虐げられてきたマイノリティの暗喩だろうから、当時と現在では作品の見方も変わってくるだろう。

単純に動物パニック映画の亜流にすぎないという方もいるだろうが、ヒッチコックの『鳥』からは随分と時間が経っているし、1975年の『ジョーズ』まではまだ4年も先なので、一概に動物パニックのひとつに加えるのもどうかと思う。

暗く、陰鬱なウィラードのすえたような黴臭さ、全身を覆う孤独と絶望感に溢れる日常生活描写が、90分間近く続く。

 鼠の不衛生な不潔感も耐えられないが、彼の絶望的な人生を凝視するのもかなりの苦痛を伴う。これに比べると、人形劇の舞台にベンを登場させる少年との純粋な友情を描いた『ベン』の方が見やすいかもしれない。ただホラー映画としての出来は圧倒的に『ウィラード』が上回るのも事実。何しろ、今観ても気味悪いのだから。

しかし、この頃の動物パニック映画について驚嘆するのはCGのない時代に動物たちをどうやって調教して、演技をしているように動かしたのだろうかということだろう。『ウィラード』『ベン』などを見ると、本物を使っているのがハッキリと分かる。根気と体力と熱意の賜物を、ただのB級映画とは言いたくない。見た方ならば理解して下さるだろうが、人間の言う通りに演技をしているように見えるネズミたちの薄気味悪さは、正直、尋常ではない。

 中でも、ベンが友人だと思い、甘えていたウイラードに裏切られたことが原因で敵意を露にする場面でのベンの顔の表情の変化には驚く。

 この頃に若かったカップルたちはいったいどんな映画を観たのだろうか。70年代を語るときに出てくる映画はどの作品を観るにしてもどこかほろ苦いし、能天気に楽しめるという雰囲気ではないように思える。

 現在のカップルたちが当時の環境にタイムスリップしたとして、どれくらいの時間であの時代に順応できるのだろうか。当時の若者が現在にやってきてもすぐに馴染めるだろうが、温室育ちの現代っ子には60年代は過酷過ぎるし、行く先々で常識の無さから揉めるであろう事は目に見えている。

 続編『ベン』では人間たちとの激しい闘争の後にベンは重傷を負い、少年の部屋に辿り着き、彼に助けを求めるシーンからのアップで終了する。果たしてベンは生き残れたのだろうか。

 どっちにしろ、『ウイラード』と『ベン』の両方が揃いも揃って、溝鼠の顔のアップでラストを迎えるというのは、かなり気色悪いので、実際に映画館まで観に行った人たちはどういった感想を持ち、どういった余韻で映画館を後にしたのだろうか?また、もし場末の汚い映画館でリアルのベンたちが這い回っている環境だったなら、気持ち悪さが倍増した事だろう。ヤツラは中世ではペストを蔓延させ、近代では腸チフスなどを流行らせた。731部隊もヤツラを使って、伝染病を流行らせようという実験を大陸でしていたくらいだ。鼠は昔も今も不吉な象徴だ。

 この作品でのアーネスト・ボーグナインは、脂ギッシュで、雇っているオバハンOLに手を出すようなオッサン役でとても憎々しい存在として君臨しているが、鼠たちの圧倒的な数の前に為す術なく、ビルの窓から飛び降りて死に絶える。しかも鼠たちは、屍骸となった後も喰い続ける。悲惨な役だ。「北国の帝王」で、リー・マーヴィンと丁々発止・対峙し合った彼と同一人物とは信じられないくらい、情けない最後を迎える。

伝説のパニックサスペンス、ウイラード。一見の価値あり。
山浦国見

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