あんじょーら

ゴッド・ブレス・アメリカのあんじょーらのレビュー・感想・評価

ゴッド・ブレス・アメリカ(2011年製作の映画)
4.2
予告編を見る限りどうも「キック・アス」や「スーパー」や「ディフェンドー」のようなストーリィなのではないか?と思って期待して観に行きました。シネマライズで公開まだ2週間なのに既に夜1回レイトショーだけになってしまってます・・・人気ないんでしょうね~でも私はかなり好感度高い作品でした。いろんな意味で考えてしまった作品。ある意味同じモチーフである「市井の一般人である人物が『正義』を問う」に括られている作品でした。ただ、過激でご都合主義ではありますが、しかし共感してしまう作品です。



妻と離婚したサエナイ男フランク(ジョエル・マーレイ)は妻になんとか子供に会わせてくれるように頼むものの、娘からケンモホロロに断られてしまいます。会社ではふとしたことからセクシャル・ハラスメントの疑いを受けて解雇!しかも頭痛が酷いために医者に向かって検査結果を聞けば末期の脳腫瘍の為余命は少ないとの宣告!!まさにどん底中のどん底に陥ったフランクは自暴自棄になって自殺を試みようと思って何気なく見ていたテレビに・・・というのが冒頭です。




社会という世界、テレビで映し出される世界に、異常な違和感を感じ、安易で浅薄でインフレーションを起こしているモノに対して素直な怒りと嫌悪感を抱いていた市井の人フランクが、余命も少なく生きる希望を失ったことで、安易に引き金を引けることに気がつき、しかし実行するまでの葛藤、また実行してからの葛藤を描いたストーリィです。



単純なストーリィではあるものの、結構細かく気をつけて作られていますし、過激な表現や描写は行われていますけれど、ただ単に過激なだけでない、見せたいものやストーリィ上避けて通れない部分の為の配慮はされている作品だと感じました。なのでこの映画で単純な感情の爆発を求めている方にも、やや醒めさせる描写や構図を示していますし、考えるとなるほどと頷けるつくりになっていて、私は好感持ちました。が、あまりに単純な作りに、単純にみえる手段を用いるという部分で興醒めされてしまう方がいても不思議ではない作品です。それでも、こういう映画が作られてしまう現状というものを考えさせられる作品だと思います。




非常に口汚くわめくセレブレティ気取りの女子高生をドキュメンタリーで追う番組、短絡な政治主張を繰り返し反論を与えない討論番組、差別発言を繰り返し煽る宗教家の番組、目立ちたいだけの少年が弱者であるホームレスに火を放った映像を放送するニュース番組、知的障害であろうと思われる弱者を笑いものにする番組・・・何かしら何処かで見たかのような既視感がありますよね。そんな番組に嫌気が差していたフランクの行動の顛末、そして関わってくる女子高生ロキシー(タラ・リン・バー)との関係性を描いた作品です。



映像はなかなかクリアで綺麗なんですが、時々ハッとさせられるかのような絵として、構図として、明かりとして、素晴らしい絵(ニューヨークの夕暮れから夜にかけての背景をバックに2人が並ぶシーンとラストシーン)があって、ここも見所だと思います。



何かしらの、社会に対する不満を抱えている方に、テレビが嫌いな方にオススメ致します。




アテンション・プリーズ!

やはりこの作品もネタバレありで感想をまとめてみたくなりました。ので、もう観られた方に読んで頂きたいです。



































































































アメリカのテレビ番組の酷さが実際の所どの程度のレベルなのか?私は知りませんが、非常に口汚くわめくセレブレティ気取りの女子高生をドキュメンタリーで写す番組や、短絡な政治主張を繰り返し反論を与えない番組、差別発言を繰り返し煽る宗教家の番組、目立ちたいだけの少年が弱者であるホームレスに火を放った映像を放送するニュース、知的障害あろうと思われる弱者を笑いものにする番組・・・安易で浅薄すぎるこれらの番組への憎悪と嫌悪を、自身の『正義』をテコに、実は自己のふがいなさや無力感や鬱憤の発露に利用しているフランクの行動は決して容認出来ませんし、安易な番組への抗議が安易な方法であるというのにも不快感を感じます。が、ここで気になるのが、家族から見放され、会社を不当に解雇され、しかも余命さえ少なく頭痛に悩む男に、安易でない解決策を示すのがなかなか難しい、ということです。本当は無視できれば何のことは無いとも思いますし、そもそもテレビを見なければ済む話しではあります。しかし、ストーリィとしては恐らく、テレビでなければ、会社の場面の時のように同僚に、上辺だけの付き合いやどうでも良い話題に花咲かせる輩に向けられると思います。いわばきっかけでしかない、という事だと思うのです。フランクにとってこの世は生き難いということですね。それも個人的傾向を強めようとすればするほど。



この映画が始まる前のフランクはただの庶民であったことでしょう、無論パッとしない人生でしたでしょうが。解雇、余命宣告、自殺未遂という映画冒頭後のフランクの行動は単純極まりない自己中心的なふるまいです。しかし、自暴自棄なだけでもない、自己を律するある種の道徳ともいえるルールがあり、そこを踏み越えることを頑なに拒否する姿勢には、共感できうる何かが潜んでいると感じました。それは拳銃の引き金を引くことの敷居の高さよりも、自律の一線を越えることへの敷居の高さの方が優るという態度に共感を感じるのです。社会のルールや道徳、法律や慣習は選ぶことの出来ないものであり、刷り込みさえ含んだ積み重ねである『文化』なのに対し、自分を縛るルールや行動原理やスタイルを破ることは容易であるからこそ、準じる姿に共感するのだと思います。



これだけの暴挙を繰り返しながら、警察に捕まらないのは納得し難い演出ですし、ご都合主義にしか映りませんが、しかし、誰しも映画館の中での迷惑行為に腹立たしい思いをしたことはあると思います。殺意を覚えるところまではいきませんし、実際に手を下すことで自らを貶めることも多くの人々が理解しているからこそ、こういう事件は現実世界ではそうは起こらないのですが、感情として理解できると思うのです。だからこそ、映画館内でのフランクとロキシーの行動に憂さを晴らす感じがするのは、やはりコレが映画だからだと思うのです。それでも、安易でない(観客のひとりにフランクが詫びを入れて、観客は「どういたしまして」と応える)笑いも差込んで見せるのだと思います。映画館に入る前のシーンに映画のポスターがいくつか映るのですが、その中に「ジーザス・キャンプ」があるのが暗示的で良かったですし、ニヤリと笑わせます。



最初の一人目には引き金を引かないで事を収めようとしている部分にも、フランクの葛藤を感じ、後ろを振り返りタバコを吸うシーン、そして結局撃ってしまうシーンの音楽の使い方の笑いも良かったですし、ラストも思いの丈を話した後に当事者に否定されるのも、何処か引いた視点を作ることに繋がっていて良かったと思います。だからこそ、最後の最後は彼らを後ろから見せるんだと思うんですね。



ただ、ロキシーの狂気には共感出来なかったです、というかワカラナカッタというのが実感です。あくまでフランクに感情移入させやすくするために出てきたのか?それとも女子の方々にはある程度共感出来うる思春期の呪縛的な何かがあるのか?動機が見えなかったのでちょっと。最後も、確かにフランクが襲う可能性は高かったものの、その場にいられるのはちょっと都合良過ぎないか?とか、ドアが少し開いた状態で着替えるのもちょっと。そこで急いでドア閉めたり葛藤から逃れようと悶えるフランクには割合共感できてしまったのですが(笑)


最後にフランクが会話したかったのはロキシーで、それも好意を伝えるなんて、そこはグッときましたね。