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風の子のニューランドのレビュー・感想・評価

風の子(1949年製作の映画)
3.9
✔『風の子』(3.9p)及び『花の中の娘たち』(3.4p)『東京の休日』(3.1p)▶️▶️

 何度も繰り返し、しょうもないが、やはり、これらもまた、恐るべき映画である、山本嘉次郎の戦後3本。
 『風の子』。戦後に入っても続く疎開生活のリアル(私の父も大阪からの疎開者だったので、直接ではないが、感覚的に幾らか理解できる)。すがれないほど素朴で拘りのない軽いタッチなので、これに関し(この映画に少なからず近い風土に育った)意識の解放されてない私には、扱いかねる要素も大きい。かなりの部分で、所謂論理というものが全く罷り通らない、説明し難い概念がやんわり自発的に居座っている。ユング的なものなのか、似た中にいた者にはよく分からないし、またそれは今·現在から否定すれば済むものでは全然ない。そしてそれらの絡みを正確に再現·書けるのは、この作家の様な、足を掬われる事のない、部外者であり、そこから公平に愛と興味を注げる、自分の拠り所をそこにおいてない都会人であると思う。今村は、妙に現地にへばりついたり、都会人的な冷ややかなメスを手放さない。山本は、全く武装しない、真にニュートラルを保てる人だ。疎開者(一家)への理由なきも当たり前の差別や非協力、昼間見せるような荷も財もない男の·未婚の一人暮し娘への誰が段どったかいきなりの婿入り、田舎にいた人間には感覚的に分かるし、もう一人の山本、薩夫映画の、その甥·山本圭のように異を唱える人間はどこにもない。理不尽は、突然の大笑いや、無意識衝突と蟠りがツーカーへ帰る。
 徴兵の父のパン屋畳み、縁者頼り、越後から能登へ。穏やかな母と、開拓精神に優れた叔母(父の妹)、兄と3人の妹の5人きょうだい。叔母に勧められての、父に当てての綴り方で、時制が遡り又今に戻る形式は、時系列より惹きつける。血縁関係なく端から冷たいケース、地域の大立者の立腹に倣うケースに、母が遂に縁戚の寺に居座り、叔母が嫁のない変人を(婿候補に)預かると名乗り·棲む家ゲットしたり(実際、純粋でいい人だったが)。一家は敢然と闘ったり、掟にあっさり從ったり。村人も畑として手の付けられない竹林を与えたり、見るに見かねて少しは可能性ある山頂に変えてくれたり。遠くに出し休暇で戻った長兄の働き、細かな仕事依頼にも応じ忙しい次兄のてんやわんや、もやがて畑も稔り、当日ズレあったも、父もやっと復員してくる。
 (厳しい本当の、遠隔地に見える)ロケ主体·ロケ中心主義、(人工混じってるにしても)掛け値ない雨粒や量の叩きつけ、雪も。山中の細く傾き危ない歩き路らに沿ったカメラ位置と移動、自主教育の実践と村のも含め子供らへの姿勢·またその中の飢餓のリアル。俯瞰め(移動)、寄る等の能動移動、飾りのない図·何気に縦が結ばれ切返されもする、個性的でやがて根っからの閉鎖性も越えてゆく可能性の力を感じさせもしてくるキャラ、虫や時計の音らの日常の刻みの不可思議リズム。イズムに基づいたリアリズムではない、足場をどこにも置かない、近代も封建制もその流れや方向を消し去る、泥まみれも汚れの付着の重みさえ消し去る、得難い眼の浸透がある。黒澤のようなあからさまなモンタージュも、意識と空間の飛躍も、ここでは不要となる。
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『花の~』。何年か前に観てたのと、所用で、ラスト数分観ずに会場を後に。洪常秀ではないが、素人より下手? の印象も与えかねないが、でも魅力的。フジカラー初期を、松竹と東宝で競作か、隙のないユニーク世界を構築·木下に比べ、実験の手口の不安定さを隠さず見せつける山本。我々田舎者は体を成さぬ恥を畏れるが、全然平気なんだ。人や車が通れる橋が未だない、東京と神奈川の県境。住居もファッションも(前·近代)産業も言葉も、180°に近く違う様。強調笑い種ではなく、程度の差はあっても、不変の根っこ。ムラ意識同士の差、或いはその優劣·リードの共通認識の傾きの留まらなさ。
 下駄でホテル訪ねも憚らずも、「ここにいなくはない。東京に出たい」との流れ歴然の中、「自分だけの事と同じに、周りの幸せも考えたい」「人は変えられても、代々が滲みた土は、何にも代えられない」「私にはいい人は変らず、社会の決めつけには従えない」「裏表の使い分けは出来ない」が拭えぬに気づく、代々の梨園の娘、同じ匂い醸し出しにしか、棲めないに気づく。妹に自分の代わりやらせ、川向うのホテルに勤め、出世の切符を手にした、同じ職場の電気技師にプロポーズされる中。
 保管のせいか、撮影·現像時からだったか、鮮やかも·とにかく泳ぎはみ出す色が不安定で、優等生木下に対し、落ちこぼれが作者みたく。緑·青·黄·赤らの原色、川流や葉々·陽光の(半)自然や農家の強烈さ、東京の遊興空間の色筆の描きなぐり自在、等が文字通り落ち着かず、自然Lに鳥らアニメ加筆も平気、矢鱈CUに切替るまんま顔色塗たくり(顔赤らめをまんま、ら。その新メイクや獰猛キャラ実験台は岡田茉莉子、多)。横や縦へのカメラワーク嵌め込みも反自然才気筆致。無意識だろうが、もっともらしさを凡庸に求める·心がこわばった、観客が逆に試されてる。 
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 それから10年後の山口淑子引退記念映画『東京~』も素晴らしい。ここでは、東宝も、映画(的特性)も、社会的成功も、恋の成就も、特に価値を持たない。戦争を経ての日米の実質権勢も威勢も、アメリカ的文化流行支配と·消え去った日本傀儡の満州国の残る文化的威容の間にまるで優劣や差異もない。文化や経済でのアメリカ成功·安定獲得者も、実際は、和風支配のファッションを自然とし、落ち着いた和風に一体的歓び見出し、満洲国文化の再現の中でこそ息づく。反米というより米文化や国威なんてその程度のものなのだ。太平洋戦争はアメリカ帝国の没落の始まりで、以降ベトナム·中国とアメリカは敗北し続けで、国家や映画先導の米国滅亡も近い。
 は、オーバーとしても、山口以外も汎ゆる俳優の個性の活かし方、そのための美術と照明の色合い、時に寄る位でカメラは平明なステージの切り取り·重ねからはみ出ず、様々なカップルの捻じれ受渡しと戻りの妙、だけに、舞台に近く専念す。マネージャー化してく·唯一の意識的悪党·詐欺師は、カモの相手の米帰り一流ファッションデザイナーに、群がるは「利用」するしか考えてない連中と、早い段階から、催し自体中止を提言·身を引こうとしている。悪も自然消滅するのだ。
 こんな、映画として、華やかさやトリック·作劇の熱や方向性のない、が冷めてもなく·真に浮つかず人間的な、広いバランスの作を作れるは、この作家だけだ。私自身は、下世話な所でしか映画を計れぬ凡人だが、この狭い偏りから、映画的という実は大して意味ない事から、完全解放された、生来の視野の持ち主をしっかり、どなたか論じつくして頂きたい。血筋だけの貴族ヴィスコンティと、精神の貴族ルノワールの差異を論じるより、しっかり田舎者の私には難しいテーマだ。
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