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その人は昔のotomisanのレビュー・感想・評価

その人は昔(1967年製作の映画)
3.4
 襟裳の波と浜、昆布採りの人を背景に舟木の「その人は昔、海の底の真珠だった」で始まって、そのまま歌と一緒に映画も4分で終わってしまいそうな雰囲気だ。嗚呼、舟木が歌う通りその人の運命も知れ、舟木もまた生きてその死を悼む現代悲傷集で終わるわけかと。

 どうもこの、終点が見えすぎてしまうのも瞑目裡に沈んでしまいそうでいけない。しかし、そもそも誰が死んでしまうのか?大人びた舟木の悲歌が終わると入れ替わり内藤によるおとなの童謡「ルンナ」の歌が始まって、この大逆転にいきなり続編開始で、襟裳のなにもない春に傷心の舟木と可憐な内藤が波乱万丈の恋愛を成就させる、と思うのが普通だろう。ところが、あれこれする内にふたりで東京へ行こうとなる。これが若々しすぎて、駈落ちという言葉など思いもつかない。

 その通り、恋愛以前な感じの二人が心細さを撚り合わせあうだけな感じであやふやにいつか解けてしまう。どうもこの骨なしな二人の感じがもどかしく、なるほど、舟木が歌った「その人」とは舟木の昔の誰かではなく、この内藤なのだと次第に合点がいく。この内藤が舟木の気まぐれの隙を抜けて、現代東京の象徴のような金も地位も妻も備えた男のアクセサリーになるのを看過する以外すべがないとする辺り、あまりの現実肯定に、ならば舟木には「死ね」とでも云うべきなのだろうか?

 多分そうなんだろう。映画公開は、黙って死を待つつもりのない新左翼な若者が羽田闘争を起こす三月前、誰も舟木が現代東京男に勝つなんて期待もしなかったのだ。ただし、その代わりもっとか弱い内藤が環境庁さえ発足していない東京の泥海で死ぬことを選ぶ。
 なんとも不可解だが北海の真珠も都会のオキシダントで錆びてはもう元の海に戻れないというのか?美しすぎてイヤになってしまう。
 しかし、その当時は違ったのだろう。金も力もなく内藤の身はおろか自身さえ助けられない舟木であっても、内藤のものにならなければ歌手舟木ファンの嫉妬の心情は収まるのだ。そして、ルンナに跨る内藤のまぼろしに見送られて、舟木はまた東京に戻っていきファンの前で「その人は昔」と歌いだすのだ。

 ドラマとして見応えに欠けるように、舟木自身にもこの筋書きは合点のいかない事があったのではないか?なぜ現代東京男と対決しないのか?東京人の大半が地方出身であるのにその代表の舟木がなぜ悲恋を強いられ、ああも何から何まで奪われるのか?
 監督松山善三の答えは、まさに言外にあって、舟木には演じさせられないが、これから舟木が向かう東京にはいろいろな若者を始めとする人々の反発の胎動が始まってるんだぞと告げたかっただろうと思う、と言いたいところだが、それはこちらの思いである。しかし、世間を見渡せば都電では派手に反合理化闘争、清水谷公園や日比谷の野音ではいつでも反戦、反政府のデモ、集会か何かをやっているはずだ。
 怒りは然るべく表さないと心にとってよくない。映画に出れば中途半端な取り成し役ばかりの舟木だが、そんな事ばかりさせられていたから直に自殺を繰り返す羽目にもなるんじゃないかと、これも勝手な思いではあるが。