1人の男の復讐から生まれる暴力をこれでもかと見せつけられる。けれど悪いのはこの男なのか?と疑問符を投げつけられた。
もしこの作品がデ・ニーロ×スコセッシという名タッグでなかったら、全然違う映画になっていたかもしれない。デニーロの役作り、スコセッシの過剰で繊細な演出が相まって、タクシードライバーやレイジングブルに匹敵する名作を創り上げている。
暴力的な犯罪者がとんでもない知識を身につけたら?この映画の恐怖はそこにある。
法律や哲学、宗教観を身につけたケイディは緻密で、狡猾。オールマイティな殺人鬼がいつ、どこで仕掛けてくるか?それには本当にハラハラさせられる。
ケイディはサムに「ヨブ記」を読め!と言い残し、クロードの殺害、岬での争いに進んでいく。
かなり気になったので、後から旧約聖書のヨブ記を調べてみた。それによると、「サタンはヨブの命以外は奪っても良いと許可をだし、ヨブはサタンによって財産と最愛の者を奪われた」というものだった。
ここでいうサタン=ケイディ、ヨブ=マックスであるが、ストーリーではヨブ一家は散々傷められながらも、命は失うことなくケイディが海に沈んでいく。
つまりスコセッシ監督は、この暴力的な映画に救いようのないラストを望まず、ケイディに対し贖罪をしたサム一家を助けたのかもしれません。
冒頭の問題。復讐心から暴力を続けるケイディは確かに悪である。しかしながら裁判で事実を隠蔽しケイディを実刑にしたサムも同様に悪である。それを判断するのはラストであり、その結末はサタンであるケイディは消え、贖罪したサムは神に助けられる、という宗教観が強く感じられました。
デ・ニーロは本当に怖い......こういう狂気の役柄は彼の右に出るものはきっとでないでしょう。