Jeffrey

ウルガのJeffreyのレビュー・感想・評価

ウルガ(1991年製作の映画)
5.0
「ウルガ」

〜最初に一言、超絶大傑作。壮大な自然と草原、大地を持ち合わせるモンゴルを舞台に、2つの人種、文明が重なり、近代化の波に押される人間達を描き、文化と伝統を重んじたドラマであり、環境破壊と文明批判を終盤に持ってきたミハルコフの金獅子賞受賞した傑作中の傑作。この映画がVHSしかないのが驚きである。これ程までに美しい映画を高画質で再度鑑賞したい。モンゴルの風に当たりにその地へ旅したいと思わされた映画である。そして最後に、生と死、文明と文化、家族愛と友情それらが詰め込まれたテーマに慟哭する。静謐と荒れ狂うカットの差にも驚く。必見〜



こちらはYouTubeで解説してます。

https://youtu.be/a25HPkNtevE

冒頭、ユーラシア大陸の奥深く、内モンゴルの緑の中。遊牧民の一家の姿がある。ある日、大草原の真ん中で立ち往生したトラックのロシア人運転手。2つの文化、友情、根源的、羊、子供、クラブ、煙突。今、近代化の波が押し寄せる…本作はニキータ・ミハルコフがルスタム・イブラムベーコフと共に原案した物語を映画化して、ベネチア国際映画祭でロシア映画として2度目の金獅子賞を受賞したロシア人のトラック運転手と内モンゴルのモンゴル人羊飼いの交友が描かれた作品で、この度VHSを購入して初鑑賞したが素晴らしい。日本配給は今は懐かしいシネセゾン。昔はよくシネセゾン配給の作品を見ていた。パンフレットもその当時は結構手にしていたし。この作品の画期的なところっていうのは、大草原がある種の主人公であり、否定的な結末と、4人目の息子が口にする言葉である。そしてブラウン管のテレビから流れてくるブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領の会話を眺めるモンゴル夫妻の眼差しである。


本作のタイトルの"ウルガ"とは、モンゴルの遊牧民が馬を捕獲するのに用いる棹のような道具のことであり、またそれを草原に突き刺しておくと、恋人たちの情事を邪魔するなと言う目印になるそうだ。ウルガとは、果てしない草原における愛と孤独、そして生命の力を象徴しているとのことである。さて、本作を制作する5年前は、ミハルコフ監督は「黒い瞳」で世界中から絶賛を受け、本作は待望の新作であった。私の生まれた年、91年度のベネチア国際映画祭では最高賞のグランプリ(金獅子賞)を受賞し、その類稀な美しさで観客を魅了したと話題になっていた。長年観たかった作品だが、VHSしかなく、この度中古で見つけて購入して鑑賞したが良かった。ivcあたりで是非ともBD化して欲しい。当時パリの公開時には記録的な数字を樹立し、その翌日の3月までで23万人を動員して、大自然のスペクタクルの中で、人間の失われていく感情の豊かさを讃えたこの作品は、各紙が絶賛し称賛の声で迎えられていたそうだ。

舞台はモンゴルの大草原。そこで自然と一体化して暮らす遊牧民一家のゴンボとパグマと子供たちを捉えつつ、他民族であるロシア人がそこに入ってくると言う話である。監督のミハルコフは当時、どこまでも続く大草原や風のざわめきと河のうねりと大地をこよなく愛する遊牧民の一家の姿を、愛情込めて描き出したかったとのことだ。遊牧民を描いたイラン映画のマフマルバフ監督の「ギャべ」を昨年見たせいか、この手の映画はいいものである。なんて言うか、素朴な人柄と景色が綺麗であり、郷愁を呼び起こすパワーに満ち満ちているからだ。この草原の遥か向こうと地平線まで伸びている大自然の空間に原始的な道具を使って生きる人々をフレームに捉える作家はやはり好きだ。本作に限っては、幾世紀にも伝えられてきた生活の知恵や伝統があり、生きていく事死んでいく者に対する尊厳の感覚などを失わないような人生観を与えている。大自然を始めとし、小動物、子供たちの純粋な感情を含み、自然と人間との深い対話がなされている。

監督は、過去を手探りで探しながら、人間の(この場合モンゴル人とロシア人)の魂のルーツを求めようとする2人を描いており、祖国を誇りに思うはずのロシア人が先祖の名前が思い出せなくなったり、チンギス・ハーンの幻影に囚われているモンゴル人は、素朴で根源的な問いを投げかけたりしている。遠く失われた過去を探す、誇り高い意志を描いた映画でもある。それが未来へと続く訳なのだろう。ミハルコフ監督の叙情性豊かな映像詩は素晴らしく、タルコフスキーの作品(惑星ソラリス)で有名な映画音楽界の重鎮エドワルド・アルテミエフが担当しているサウンドも素晴らしく、映像と完全に一体化し、雄大な詩的イメージを作り出すことに一躍をかっている。そもそもモンゴルと言うのは、日本にはなじみはないだろう。1921年に独立を果たしたモンゴル人民共和国(外モンゴル)と中華人民共和国内モンゴル自治区(内モンゴル)の2つの国に分かれている事はご存知だと思う。映画の舞台となるのはこの内モンゴルであり、外モンゴルに続く雄大な大草原地帯と、対照的に完全に中国化した都会の姿を映し出している。これがこの作品におけるモンゴルの事情である。ユーラシア大陸の東の果て、大空が360度に広がる大草原の暮らしが垣間見れるのだ。

そしてこの作品は中国語とモンゴル語の2カ国が使用されて、都市部では中国語、草原ではモンゴル語しか通じない。中国語しか話せないモンゴル人がいる反面、草原のモンゴル人にとって中国語は全くの外国語だということが明らかになる。実際ここ最近のテレビニュースで、中国共産党がモンゴルの教育に手を出し、言葉と言う文化を破壊しようとしているのは皆も承知だろう。そして出産制限は中国では、一人っ子政策が実施されているが、モンゴル人には3人まで子供を持つことが許されているとのことだ。しかし、自然の恵みを尊ぶモンゴル人にとって3人でも少なく感じると言う。ちなみに、4人目以降の子供は、18歳まで戸籍に入れずに育てられるらしい。そして義務教育は、7歳から16歳まで、しかし、これはかなりおおらかな枠組みで、最後まで踏襲する比率はかなり少ないとの事。ちなみにこの作品によく出てくるチンギスハーンと言うのは、名前のネーミングだけは日本人でも知っていると思うが、この人がどういった人なのかと言うのは分からない人の方が多いと思う。

おおざっぱに話すと、彼はモンゴル帝国の始祖で、1204年に全モンゴル部族を統一させ、ハン(王)の位についてチンギスの称号を得た人だ。東西文化を尊重して氏族的な結合関係を解体させ、板の下に統轄された専制的な遊牧領主制を確立させた。彼の征服機能と統治の精神は歴史上最も広大な範囲に、そして長きにわたって浸透したとの事だ。現在でも、彼のことを誇るモンゴル人によって、神として崇められているようだ。そしてこの作品の映画事情として、漢民族とモンゴル民族で好みがはっきり分かれているとの事。モンゴル人は本作のような民族性豊かなテーマを好むが、住人の大多数が漢民族に締められるため、制作、上映の機会は共に少ないそうだ。そして、チベット文化の影響でもある、鳥が死体を食べると吉兆の印と考えているようだ。モンゴル人は元来宗教的哲学観を持たない民族で、伝統的には遺体は草原にそのまま置くだけと言う形が取られる。だからセルゲイが草原で見つけた死体に仰天するのはこのためである。自然を崇拝し人間もそのー部として捉えられるモンゴル人にとって、死こそが自然に帰る事らしい。


そして、羊を殺して食べるシーンがあるように、草原の食文化を占めるのは、肉と乳製品(赤い食べ物と白い食べ物)である。マイナス40度にまで下がる冬でも高気圧の中心にあたる天気は良く、乾燥して保存がきくために肉には事欠かない。宅蓄えの利かない夏は、毎日加工された乳製品が並ぶ。日中は、ダン茶にミルクを加えて作る乳茶を基本にキビ、乾燥チーズ、固パンなどをお茶に浸して食べるシンプルなパターンが多いそうだ。夕食は、肉料理。元来、騎馬遊牧民であるモンゴルの料理は穀類が含まれず肉だけの料理が特色であるが、中国文化の影響で小麦を使った肉うどん、餃子、ワンタンなども見られるとのことだ。長い前おきはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は中国の内モンゴル自治区に広がる大草原。馬にまたがったゴンボがウルガを手に妻パグマを追いかけ、強引に襲いかかろうとするが拒まれる。1人草原に残されたゴンボはどこまでも広がる大空を眺めた。大草原の遊牧民ゴンボ一家には3人めの子供が生まれたばかりだ。彼が夢見る英雄チンギス・ハーンが4人めの子供だったことから、彼はどうしても4番目の子供が欲しかった。名前もテムジンと決めてあるのだ。しかし中国人である妻のパグマは中国の法律が一人っ子を、モンゴルでさえ3人の子供までと決めている事からずっと彼のことを拒否しているのだ。そんなゴンボを見て母親は街の嫁をもらったからだと彼を責める。彼らの生活は雄大だ。羊と牛を飼い、大自然の動きに身を委ねながら暮らしている。


訪ねてくるのは時々酔っ払って冗談ばかり飛ばす叔父のバヤルトだけ。しかし彼らは幸せだった。そんなある日、道路建設を仕事とするロシア人セルゲイが草原の中で見つけた。トラックが河に落ちて立ち往生していたのだ。客人を食事でもてなす遊牧民の礼儀に従って、セルゲイはゴンボの住処、ゲル(包=パオ)に招かれた。片言のモンゴル語しか話せない彼とゴンボたちの会話は身振り手振り。だが息子のボイン、娘のボルマの笑顔やアコーディオン演奏がそんな気まずさをも吹き飛ばし、打ち解けていった。特にボインはセルゲイが軍人時代、背中に入れた刺青(ロシア民謡の楽譜)が気に入ったようだ。その夜、再びゴンボが追ってきたのに対し、パグマは避妊具があるならと答えた。彼にすれば初めて聞く事ばかり。

次の日にセルゲイの暮らす町へ行き、テレビと一緒に買ってくることにした。久しぶりに町に出て、遊牧民の暮らしにもどんどん文明が入り込んできたことを感じるゴンボ。チンギス・ハーンを追い求める彼の中に少しずつ変化が生じる。避妊具は恥ずかしくて買えなかったが、テレビと自転車と帽子を買ってセルゲイと待ち合わせたディスコに向かった。言葉がわからぬゴンボを前にして、セルゲイは友人の農民とロシア人の魂について論争し始めた。話すうちに自分の中でもロシア人が消えている事に愕然としたセルゲイは、場違いにもディスコで生バンドをバックにロシア人の歌を歌うのだった。ところがその騒動に警察が駆けつけセルゲイを捕まえてしまう。ゴンボは町で唯一の親戚、バン・ビアオの助けを借りて彼を釈放させた。ゴンボにとって避妊具の事は大きな問題だった。

ラマ僧に相談してみるが人間誰しも悩みがあると言われるだけ。荷物を抱えて草原へと戻るゴンボ。食事を終えた彼は白昼夢を見る。チンギス・ハーンが彼に向かってお前はモンゴル人ではないと言う。その顔は叔父のバヤルトであり、隣にいるのは妻のパグマだ。ハーンの部下に命じ彼とセルゲイを捕まえてしまった。自分のパオに戻ったゴンボはテレビを取り付けているところだ。一家5人がじっとテレビを見つめる。その時パグマが尋ねた。私が頼んだものを買ってきてくれた?どうして?売り切れだったと嘘をつくゴンボ。だが彼は後悔などしない。そんな夫を見て彼女は黙って草原へと出て行く。その後をゴンボは無言で追いかけた。きっと4人めの子供が生まれるところだろう…とがっつり話すとこんな感じで、誰も止められない時の重みを描いている。

なぜならラストのシーンで黒煙が上がる煙突を捉えるからだ。この壮大な大地にも近代化の波が押し寄せていると言う合図である。監督はそのメッセージを最後に我々に伝えた。その近代化の波になすすべもなく飲み込まれてしまった青年、そしてその近代化の波に反抗して闘った青年を私は知っている。それはATG作品「遠雷」である。ふとその作品が頭をよぎった。今思えば87年の「黒い瞳」ではイタリア人とロシア人の男と男の愛の結びつきを描いていて、本作でも再び他民族と他民族が共に生活する映画を作っている。この監督はヒューマン・タッチで物事を描くのが非常に好きな監督である。いずれテント生活がなくなってしまい、原始的な生活から近代的な生活へと変わりゆく運命、その文化批判的なメッセージ性が見て取れるが、一方的に批判しているわけでもなく感じる。

ブラウン管テレビに映る政治家の演説、テレビを包んでいたクッション材をプチプチとつぶしてしまうおばあちゃんの姿には心から救われる思いだ。優しさ反面、羊を殺して食ってしまうグロテスクな場面も見せつつ、これが人間の生きる世界であることを知らせてくれた。その遊牧民の生活方法というのが、この映画を見れば一通りわかる。なんとも不思議でファンタジーな映画だ。この家族が徐々に歳をとり、近代化の波にどう対処するかを私は遠くから眺めていたい。そんな気持ちになった。大人の目、大人の心、そして国と国との境のない世界が写し出された素晴らしい映画であり、伝統と文化を垣間見れた貴重な作品とでも言える。そしてあの虹が写し出されるシークエンスの美しさは撮影監督を務めたカルウタに拍手喝采を贈りたい。刻々と色合いを変える、空がなんとも脳裏に焼きつく美しい映像だった。緑と青の世界、草と空の空間。そこに1人の白人と1人の黄色人種が混じ合う時、夜空に満月が光る(何が言いたいかは映画を見ればわかる)。何とも愛のぬくもりを感じた映画だった。

ミハルコフの山グラフィーの中でも1977年に監督した「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」は彼の作品の中でもダントツの傑作と言えた。その他にもアカデミー賞を受賞した「太陽に灼かれて」、最近では(2007年)シドニー・ルメット監督の大ヒット作「12人の怒れる男」もロシア版としてリメイクされ、チェチェン人の青年を犯人に置き、様々な男たちのイデオロギーを垣間見せる新鮮な傑作を生み出したのは記憶に新しいだろう。そしてその翌年の2008年には黒澤明賞も受賞している。確かその12人の(DVD特典で、黒澤明に言及していた監督のハイテンションさを思い出す)中では、監督自身も出演者として出ている。


いゃ〜、今回初めて見たが、ここまで感動する作品だと正直思っていなかった。パッケージを見る限り映像風景がダントツに美しく、モンゴル人が主演になっている分私好みの作品には間違いないとは最初から思っていた。しかしながらここまで論理を超えるほどの感動を味わったの久方ぶりである。自分の運命をまっとうに生き、画面いっぱいに広がる大自然と土地に生きる人物、それをロングショット、クローズアップで捉えた瞬間もはや神秘的な映画だと確信した。そもそも私にとって誰1人知らない役者がいるので、半ばドキュメンタリー映画を見ているかのような錯覚にも襲われるとともに、一切退屈せずに少しばかりの緊張感を保ちつつこの東洋の映画とでも言えるような支那大陸に飲み込まれてしまったモンゴルと言う小国(あえてそういう)と世界で最も広い国であり、ヨーロッパ諸国やアジア諸国と国境を接し、太平洋と北極海に面しているロシアに住む民族との交流が描かれた作品など、他を探してもこれ1本ぐらいだろう(調べてないから判断はできない)。

あのグロテスクな羊を殺すプロセスを見せられると、少しばかりショックを受けるが、これはモンゴル特有のおもてなしと言うことで、例えば実際に私がモンゴルへ行ったとして、彼らと歩み寄れば羊を殺して煮め、羊の胸をナイフで切り裂き素手を突っ込み、人差し指と中指で心臓近くの大動脈をつまんで即死させたりするのだろうか?血は腹中に溜まり、それをくみ出して腸詰にする。唯一の救いは苦痛を与えない優しさがあったことだ。こうすると痛みをほとんど感じずに死んでいくらしい。屠殺法というものである。それにこれもモンゴル特有のお酒なんだろうけど、クミスと呼ばれる馬乳酒はかなりのアルコール度があるらしく強いそうだ。これはどうやら高血圧、中風、心臓病、糖尿病、神経衰弱などの特効薬で、その酒による診療所さえあると言われている。ヘルシードリンクとしてキルギスとかでも飲まれているようだ。こーゆーのって、遊牧民のモンゴル人の、自然と共存する長い伝統的な生活から身に付けた知恵なんだろうなと映画を見て思う。今人類が忘れてきてる人間の生き方ではないだろうか…。


ここで印象的だった場面を言うと、ファースト・ショットの馬で大草原をかける場面は圧倒的だった。映像はもちろんのこと、モンゴル人が馬に乗って疾走するダイナミックな映像と、掛け声、馬の地面を蹴る音がなんともすごかった。そして太鼓打つような音楽がさらに加速するテンションを高め、雷雲、夕焼けの色味、民謡と映像と音楽が素晴らしい。この作品のサントラが欲しい位だ。そしてモンゴル親子が大草原の中を歩きながら、息子が僕たちはモンゴル人なの?でも親戚のとある人は中国人だねなどと言いながら父親と話す後ろ姿のショットはすごく良かった。父親が中国に住んでいるモンゴル人だよと言う場面。そこからトンボを捕まえて、父親が息子にトンボの生態を説明した後にきっちりと解き放つ場面良かった。そしてロシア人の登場の仕方が滑稽で笑える。それにしてもすでに子だくさんで3人もいるのに、4人めを作ろうとする夫に対して、妻が嫌がる(セックスを拒絶)と言う気持ちも非常にわかる。しかし妻は、中国の制度である一人っ子政策に言及する分、それがなければ全然やってもいいとの事なのだろうか?セックスしてしまうと子供が生まれてしまうので、避妊具を買いに行く羽目になる夫が、近代化の波に押されつつある中国の街に場違いな格好で現れるのが何とも面白い映像になっている。

近くやはりゴンボはチンギスによるモンゴル民族のアイデンティティーに非常にこだわっていることがわかる。モンゴル国は超過疎国らしいので、産児奨励である。しかし内モンゴルは中国領なので、一人っ子が奨励され、子供2人までが国の方針になっている。もう3人もいるのにと言う妻の言葉の根拠になっている。しかも妻は怯えながらもしばれたら大変なことになるとも言及していた。結局のところ夫が避妊具を購入するのをやめた。それは恥ずかしいと言う事柄だが、実際問題は、そんなこともなく、4人目を作る気満々だったと言う事は拭い切れない。それにしてもセルゲイがクラブで歌を歌っていうのは、戦後日本でも流行ったロシア民謡の満州の丘に立ちて…であるから驚く。ここでのフラッシュバック現象は非常に効果的である。その前に、ゴンボが草原でチンギスハーンの夢を見るシーンも非常に良かった。アイデンティティーとイデオロギーが垣間見れる瞬間だ。これは後ほど話すが、クライマックスでナレーションが起こり、そこに日本人と言うセリフが出てくるのだが、セルゲイが、100年前に俺の祖父がここで戦ったと言う発言は、祖父の戦場は1904年から5年の日露戦争の満州であることがまずわかるし、セルゲイの戦場は1939年のハルヒン(ノモンハン)が、1945年の太平洋戦争末期の満州進攻だったに違いないと山田和夫氏がいう様にそうなのである。

今でこそグリーンニューディールと叫ばれる世の中(一方的な主張である)の地球温暖化に対して懸念を持っている人たちが排気ガスをなくそうなどと色々とやっているが、この作品もどちらかと言うと地球環境の未来を映し出している。それは何故かと言うと、最後の下りである。ネタバレになるためあまり言いたくなかったが解説する。それは、4人めの子供を結局産み、その子が大人になる。しかし映画では彼自身の姿は現れず、ナレーションと言う声だけが我々の耳に届く。そのナレーションでは、奥さんをめとったと言っている。そうするとある程度の年齢はいっていると言う事は判明できる。すなわち、ゴンボ一家の夫婦がその子を産んでから20年以上は経っていると判断できる。そして、彼のナレーションとともに画面に映し出されるのは、煙突から黒い煙が出ている描写である。それは自然豊かな大地であったモンゴルに近代化の波が押し寄せ、決して明るくない未来が提示させられるのだ。排気ガスで地球環境は破壊され、自然の摂理が崩壊していくと言うような暗示がなされている。

そして私たちはこの不安と危惧をどのように導かなくてはならないのかと言うのが提示されている。これは監督のー種のイデオロギーだが、賛成する人も多くいるだろう。しかし地球温暖化は全くなっていないと言っている側の人間からすれば否定的な解釈になる。ニュートラルに考えても私には答えは出せない。かくして、人間の進歩には物質的文明の発達が不可欠である。しかしそれは代償を伴うものであり、われわれは考えなければならないと監督のメッセージが最後の最後に強烈に炸裂した映画であった。だから羊をグロテスクに殺す描写などが挟まれていたんだと思う。それは、いかにして、生命が大切であり、我々に必要不可欠なものかと言うものは、地球の環境破壊によって、我々自身に降りかかってくる災難であり、自然の尊さをわれわれは知らなくてはならず、生きる大切さと自然の大切さをもう一度皆で考えてほしいと言う文明社会へ投げかけた問いである事は言うまでもなかったと思う。

さて印象的だったシーンの話に戻るが、バヤルトがご機嫌良く馬で登場するシーンで夫婦に手渡すアメリカの映画ポスターがジョージ・P・コスマトス監督の「コブラ」だったのが笑えた。そしてロシア人の背中に彫られている楽譜の刺青を見て興味津々の息子の表情がものすごく可愛らしい。その他にもその子供の可愛らしい表情が前面に出ていて本当に良かった。癒される。それと先ほども述べたが、羊を殺す場面で、惨たらしいのを見たくないロシア人が背を向けるのと家族が団結して羊を解体する場面のクロスカットがあるのだが、その場面もすごく印象的で、羊の目を閉じさせてと奥さんが言ったり、息子に手伝わせたり、あくまでも小動物の命を奪ったと言うことで、少なからずとも敬意的なものを表し、丁寧にひつじ肉を調理するまでの過程はグロさ中に優しさが見えた。そもそも裕福ではないのに、他民族のロシア人を家に招いて、ご馳走を与える時点でこの家族には優しさがあることがわかる。

そこでロシア人が音楽をやってくれ、娘に言ってアコーディオン弾くのだが、それを聴いて涙するロシア人のクローズアップも印象だが、ここまで少数民族が閉鎖的でない感じなのか凄く良かった。勝手なイメージだが、どこかしら排外主義のイメージがあるものだから。映画的なのか、実際のモンゴル人がそうなのか、わからないが鎖国的ではなかった。そしてゴンボが中国の中心部に買い物にでて、遊園地のアトラクションに乗りながら眠る場面での音楽が流れるワンショットも印象的である。そんで中国のクラブで酔っ払ったロシア人のセルゲイがワルツを歌い始めて捕まるまでの話もなかなかよくできていて、自分のお爺ちゃんの名前を思い出せなくてショックを受ける表情が何とも言えなかった。その後に警察官に連行された彼を救うために、ゴンボが知り合いの中国人に助けを求めて出してもらうまでのエピソードも良い。娘が民族衣装を着る場面があるのだが、昔に見た確か2007年ベルリン国際映画祭の金熊賞に輝いた中国映画なんだけど、実際は内モンゴルを舞台にしているモンゴルの結婚を描いたワン・チュアンアン監督の「トゥヤーの結婚」をふと思い出した。

そしてほぼ終盤にかけて、時代劇かのようなダイナミックの大迫力の元寇襲来が写し出される。日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたりやられた対日本侵攻しただけはあるよ、やはりモンゴルは強いと思った画だった。一昨年ぐらいに角川からBDが発売された蒙古襲来を描いた作品も迫力があった。結局その戦いは日本が勝利してモンゴルは撤退したんだけど、1度は世界を征服した民族なだけあって強いわ。だが近年中国は内モンゴル自治区の言葉を奪い、中国語の勉強させようとしている分非常にショックである。そんでこの映画のラストの広大な豊かな大地と共にゴンボが馬で駆け抜けるラストショットは何とも言えない感情に陥る。その寸前までに、自宅でブラウン管テレビから流されるアメリカの政治家の演説を見て彼は何を思ったのだろうか、非常に考えさせられるラストであった。

そして、セルゲイとゴンボの息子、娘の歌と笑顔…そして最後にナレーションとして語られる私が刺したウルガのところに今は煙突が立っていると言って、なぜかロサンゼルスにいる日本人の所へ私は今年行くと言う言葉とともに、うっすらと音楽が流れ、文明の一つ電話の着信音がひたすらなり続くエンドロールは、要因が非常に残り、煙がどくどくと煙突から出てくる映像は後に静止画へと変わり、優しくゆっくりとフェイド・アウトするのであった…。あぁ、傑作。これ、東北新社とキングレコードが販売元、発売元になっているが、とにかく円盤化してほしい。これほどまでに傑作の映画がVHSのまま残っているのがほんとにありえない。

話を物語に戻して、そもそも本作の舞台は同じモンゴルでも、中華人民共和国内モンゴル自治区と普通モンゴルと言うと中国側が言う外モンゴル、現在モンゴル国(旧モンゴル人民共和国)を指差す事は知っていると思うのだが、チンギスハーンの故郷もそのモンゴルである。面積は日本の4倍だが、人口200万人ちょっとで、日本の60分の1に過ぎず、人口密度は1平方キロにたった1人(日本を327人)。しかし、人口の90%はモンゴル人。これに対して、内モンゴルは少し面積は狭いが、人口2000万人を超す。人口の84.4%は漢民族で、モンゴル人はわずか12.9%であるとのことだ。本作に出てくる社会風景を見ても中国化が著しいことがわかる。ただ、あの家族が住む草原は外モンゴルに続き、モンゴル本来の姿そのままを残しているとの事(プレスシート調べ)。

さて、話はこの作品の音楽を担当したアルテミエフに純平したいのだが、あまりにもこの作品の音楽が素晴らしすぎて、この作曲家のことを少し調べてみた。そうするといろいろなことが判明した。まず旧ソ連邦では第一級の作曲家であり、特に電子音楽(シンセサイザー)の第一人者として有名だそうだ。当時エリツィン、ロシア大統領の文化顧問をして、電子音楽協会会長であり、80年のモスクワ・オリンピックの開会式でも彼の作曲したカンターラが用いられていたことが、母国での彼の評価の高さを伺わせると記載されていた。そしてミハルコフ、タルコフスキー、ミハルコフの兄のコンチャロフスキーの様々な映画音楽を手がけており、広範囲な活躍をしていたそうだ。タルコフスキーの「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」における新鮮な手際は、映像作品自体の高い評価に対する決定的役割を果たしているとのことだ。タルコフスキーの作品を昔見て、音楽の事までは正直覚えていないが、改めてタルコフスキーの作品を鑑賞して、彼の音楽に耳をすませたいと思った。

そしてキャストについても話したい。まずセルゲイ役の役者ウラジミール・ゴストゥーヒン以外は全員が素人で、ゴンボ役の人は、実生活では会計士を務めていて、子供たちは幼稚園の園児の中から選ばれたそうだ。そして奥さん役の女優は民族歌謡団に属し、俳優としてではないまでも、人前でのパフォーマンスにいくらか慣れていた歌手が選ばれたそうだ。彼女は、内モンゴル自治区の首都フフホトに住んでいるらしく、中国に属するその地域の暮らしをしながら、彼女は自分は中国人ではないと断言し、モンゴルの歌を口ずさむことで、自分のアイデンティティーを確認しているそうだ。長々とレビューしたが、これは絶対に見て欲しい傑作だ。VHSしかないが、渋谷のTSUTAYAにはあった。ビデオが見れる環境の人はぜひともオススメ。ちなみにYouTubeにも落ちている(字幕は無い)。
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